7月30日、元台湾(中華民国)総統であった李登輝氏が亡くなりました。97歳。大往生ですね。
李登輝氏は、日本が台湾を植民地としていた1923年、台湾で生まれました。終戦まで日本語で教育を受け、来日時、「私は日本語がもっともうまい。22歳まで日本人だったからだ」と話していたそうです。
1943年、台湾で高校を卒業。当時、台北帝国大学には現地人に対する入学制限があったため、進学できず、京都帝国大学農学部に進学しました。1944年に学徒出陣。名古屋の高射砲部隊に陸軍少尉として配属され、終戦を名古屋で迎えました。
1946年、台湾に帰国。直後に「2・28事件」が起こります。
太平洋戦争終戦後、台湾は日本から中華民国に引き継がれます。しかし、中国大陸では蒋介石率いる国民政府軍と毛沢東の中国共産党が激しく戦っていました。台湾支配のために送られた中華民国の軍人・官僚(外省人)は質が悪く、汚職・強姦・強盗・殺人が横行。もともと台湾に住んでいた人々(本省人)は、日本支配時代の治安の良さを懐かしみ、「狗去豬來」(犬〔日本人〕去りて、豚〔中国人〕来たる。日本人はうるさくても番犬として役に立つが、中国人はただ貪り食うのみで、役に立たないという意味)と嘆いたそうです。
2・28事件とは、その後長く続く、外省人による本省人に対する「白色テロ」のさきがけで、多くの台湾知識人が投獄、処刑され、1992年に台湾の行政院が発表した事件の犠牲者数は、1万8千〜2万8千人とされています。このとき、李登輝氏は、迫害を恐れて知人宅に潜伏し、難を逃れました。
私事になりますが、私の父は1926年(大正15年)生まれで、陸軍士官学校を繰り上げ卒業後、終戦直前に高射砲部隊に配属され、そこで終戦を迎えました。もしかしたら、李登輝氏とどこかで相まみえていたかもしれません。
また、母方の叔母は、戦争中に早稲田大学に留学していた台湾人と恋に落ち、終戦後、台湾に帰った恋人を追って、たった一人で貨物船に乗り込み台湾に渡り、結婚しました。彼は本省人で、台湾における白色テロの恐怖について、叔母の来日時に聞いたことがあります。
さて、李登輝氏はその後、台湾大学を卒業して米国に留学、農業経済学の修士号をとって帰国、農業技師になります。やがて、蒋介石の息子である蒋経国氏によって重用され、政界に進出。蒋経国総統の死後、第4代中華民国総統に就任。総統になってからは、台湾の民主化に努め、国民の直接選挙による総統選挙を実現、初めて民主的な選挙で選ばれた総統になりました。
李登輝氏が総統であったとき、台湾の歴史教科書が改訂されました。これは、外省人によって歪曲されていた歴史を見直したもので、植民地時代について、日本批判一辺倒ではなく、評価すべきところは正当に評価する内容でした。
戦争と皇民化
一九三七年、中日戦争が発生してから、日本は戦争の必要性から台湾で「皇民化運動」を推進し、日本語使用の奨励、日本式生活習慣の普及、日本姓への改名、日本神社への参拝などを進め、台湾人に日本国民としての愛国心と犠牲的精神を扶植しようとした。間もなく台湾人からも従軍者を募集し、最終的には徴兵制度まで施行し、その結果、台湾籍日本兵は総数二十余万人に達した。
第七章 日本植民統治時代の政治と経済
植民地経済の発展
経済発展の基礎確立
日本植民地統治の初期、総督府は台湾を日本の経済発展に組み込むため、積極的に各種の経済改革と建設を促進した。
一、土地制度の改革: 耕地面積を調査し、新たに土地所有権を確定し、耕作地税収を大幅に増加させた。
二、貨幣と度量衡制度の統一: 日本国内の制度に合わせ、新たな貨幣の発行と新たな度量衡機器の製造を統一した。
三、交通網の整備: 各地にくまなく郵便局を開設し、郵便・電報・電話の業務を執りおこなった。自動車の通行できる道路を修築し、基隆から高雄にいたる縦貫鉄道を建設し、台湾の各地域間の交通運輸網を改善した。基隆港と高雄港を改築して近代的設備を整えた港に整備し、1万トン級船舶の出入港を可能にした。このほか部分的に媽宮城(現在の澎湖馬公)を取り壊し、馬公港を建設した。
四、人口調査: 一九〇五年、台湾史上初の人口調査を実施し、全台の総人口は約三百十万人であった。一九一五年より五年ごとに定期調査をおこない、台湾の人口状況を確実に掌握した。
農業改革
日本植民地統治の当初、総督府は「農業は台湾、工業は日本」の政策を立て、台湾を米と砂糖の生産地とするため、農業改革を積極的に推進した。
一、各地に農業研究機関を開設し、新品種や新化学肥料を提供するとともに、耕作新技術の指導にあたった。
二、各地に農業組合を設立し、新種の普及と新技術の教育に責任を持ち、農業用借款の貸付業務をおこなった。
三、水利工事を興して耕地・潅漑面積を大幅に拡大した。そのうち最も有名なのは八田与一の設計・建設した嘉南大圳(大水路)であり、その潅漑面積は十五万甲(約十五万ヘクタール)に及んだ。
米の増産と砂糖王国の樹立
農業改革により、水田面積と二期作の耕地は不断に増加し、米の産出量は激増の勢いを示し、とくに一九二二年、蓬莱米栽培の成功は、台湾に米生産の画期的発展への時代をもたらした。総督府の強制的な推進の下に、蓬莱米は急速に全台湾に普及し、米の生産量は大幅に増加して大量に日本に移出された。
台湾は砂糖の主要な生産地であり、このため総督府は台湾糖業の改革に尽力し、日本国内の需要に応じようとした。甘蔗栽培に改良が加えられてからは、単位面積の産出量は大幅に増加し、作付け面積もまた拡大していった。
日本植民地統治からすぐ、総督府は製糖産業の近代化に尽力し、資金援助の実施、原料採取の地域指定、市場の保護といった三大措置をおこない、日本の新興製糖業資本家を支援し保護した。このため、日本の資本家は競って台湾に投資するようになった。製糖業は台湾を最も代表する産業となり、その生産量は絶えず増加し、最盛期には百五十万トン近くにも達し、台湾を世界的な砂糖王国の一つとなした。
工業化への進展
日本植民地統治時代、台湾経済は農業を中心とし、工業は長いあいだ農業に付随し農産品の加工が主たるものとなっていた。一九三〇年代より日本は華南や南洋を進出目標とした南進政策の必要性から、総督府は台湾の工業化政策を推進するようになり、軍需に関連する基礎的工業を発展させ、台湾を日本南進の補給基地となした。
工業化の結果、農産品加工業の継続的発展のほか、化学・金属・機械工業など重化学工業が顕著に成長し、台湾を半農業半工業社会に転換させた。
〈出典〉
『認識台湾』①
『認識台湾』②
『認識台湾』③
韓国(35年)よりも長い間、植民地支配を行った台湾(50年)において、国民はおおむね親日的であり、反日一辺倒の韓国と好対照を見せるのは、やはり「教育」によるところが大きいと思われます。
同じ世代の白善ヨプ将軍が「親日派」(売国奴)として非難され、破墓の危険にさらされている(リンク1、2)のに対し、終生「親日派」を自任していた李登輝元総統は、今も多くの台湾国民から敬愛されているとのことです。
ご冥福をお祈りします。
李登輝氏は、日本が台湾を植民地としていた1923年、台湾で生まれました。終戦まで日本語で教育を受け、来日時、「私は日本語がもっともうまい。22歳まで日本人だったからだ」と話していたそうです。
1943年、台湾で高校を卒業。当時、台北帝国大学には現地人に対する入学制限があったため、進学できず、京都帝国大学農学部に進学しました。1944年に学徒出陣。名古屋の高射砲部隊に陸軍少尉として配属され、終戦を名古屋で迎えました。
1946年、台湾に帰国。直後に「2・28事件」が起こります。
太平洋戦争終戦後、台湾は日本から中華民国に引き継がれます。しかし、中国大陸では蒋介石率いる国民政府軍と毛沢東の中国共産党が激しく戦っていました。台湾支配のために送られた中華民国の軍人・官僚(外省人)は質が悪く、汚職・強姦・強盗・殺人が横行。もともと台湾に住んでいた人々(本省人)は、日本支配時代の治安の良さを懐かしみ、「狗去豬來」(犬〔日本人〕去りて、豚〔中国人〕来たる。日本人はうるさくても番犬として役に立つが、中国人はただ貪り食うのみで、役に立たないという意味)と嘆いたそうです。
2・28事件とは、その後長く続く、外省人による本省人に対する「白色テロ」のさきがけで、多くの台湾知識人が投獄、処刑され、1992年に台湾の行政院が発表した事件の犠牲者数は、1万8千〜2万8千人とされています。このとき、李登輝氏は、迫害を恐れて知人宅に潜伏し、難を逃れました。
私事になりますが、私の父は1926年(大正15年)生まれで、陸軍士官学校を繰り上げ卒業後、終戦直前に高射砲部隊に配属され、そこで終戦を迎えました。もしかしたら、李登輝氏とどこかで相まみえていたかもしれません。
また、母方の叔母は、戦争中に早稲田大学に留学していた台湾人と恋に落ち、終戦後、台湾に帰った恋人を追って、たった一人で貨物船に乗り込み台湾に渡り、結婚しました。彼は本省人で、台湾における白色テロの恐怖について、叔母の来日時に聞いたことがあります。
さて、李登輝氏はその後、台湾大学を卒業して米国に留学、農業経済学の修士号をとって帰国、農業技師になります。やがて、蒋介石の息子である蒋経国氏によって重用され、政界に進出。蒋経国総統の死後、第4代中華民国総統に就任。総統になってからは、台湾の民主化に努め、国民の直接選挙による総統選挙を実現、初めて民主的な選挙で選ばれた総統になりました。
李登輝氏が総統であったとき、台湾の歴史教科書が改訂されました。これは、外省人によって歪曲されていた歴史を見直したもので、植民地時代について、日本批判一辺倒ではなく、評価すべきところは正当に評価する内容でした。
戦争と皇民化
一九三七年、中日戦争が発生してから、日本は戦争の必要性から台湾で「皇民化運動」を推進し、日本語使用の奨励、日本式生活習慣の普及、日本姓への改名、日本神社への参拝などを進め、台湾人に日本国民としての愛国心と犠牲的精神を扶植しようとした。間もなく台湾人からも従軍者を募集し、最終的には徴兵制度まで施行し、その結果、台湾籍日本兵は総数二十余万人に達した。
第七章 日本植民統治時代の政治と経済
植民地経済の発展
経済発展の基礎確立
日本植民地統治の初期、総督府は台湾を日本の経済発展に組み込むため、積極的に各種の経済改革と建設を促進した。
一、土地制度の改革: 耕地面積を調査し、新たに土地所有権を確定し、耕作地税収を大幅に増加させた。
二、貨幣と度量衡制度の統一: 日本国内の制度に合わせ、新たな貨幣の発行と新たな度量衡機器の製造を統一した。
三、交通網の整備: 各地にくまなく郵便局を開設し、郵便・電報・電話の業務を執りおこなった。自動車の通行できる道路を修築し、基隆から高雄にいたる縦貫鉄道を建設し、台湾の各地域間の交通運輸網を改善した。基隆港と高雄港を改築して近代的設備を整えた港に整備し、1万トン級船舶の出入港を可能にした。このほか部分的に媽宮城(現在の澎湖馬公)を取り壊し、馬公港を建設した。
四、人口調査: 一九〇五年、台湾史上初の人口調査を実施し、全台の総人口は約三百十万人であった。一九一五年より五年ごとに定期調査をおこない、台湾の人口状況を確実に掌握した。
農業改革
日本植民地統治の当初、総督府は「農業は台湾、工業は日本」の政策を立て、台湾を米と砂糖の生産地とするため、農業改革を積極的に推進した。
一、各地に農業研究機関を開設し、新品種や新化学肥料を提供するとともに、耕作新技術の指導にあたった。
二、各地に農業組合を設立し、新種の普及と新技術の教育に責任を持ち、農業用借款の貸付業務をおこなった。
三、水利工事を興して耕地・潅漑面積を大幅に拡大した。そのうち最も有名なのは八田与一の設計・建設した嘉南大圳(大水路)であり、その潅漑面積は十五万甲(約十五万ヘクタール)に及んだ。
米の増産と砂糖王国の樹立
農業改革により、水田面積と二期作の耕地は不断に増加し、米の産出量は激増の勢いを示し、とくに一九二二年、蓬莱米栽培の成功は、台湾に米生産の画期的発展への時代をもたらした。総督府の強制的な推進の下に、蓬莱米は急速に全台湾に普及し、米の生産量は大幅に増加して大量に日本に移出された。
台湾は砂糖の主要な生産地であり、このため総督府は台湾糖業の改革に尽力し、日本国内の需要に応じようとした。甘蔗栽培に改良が加えられてからは、単位面積の産出量は大幅に増加し、作付け面積もまた拡大していった。
日本植民地統治からすぐ、総督府は製糖産業の近代化に尽力し、資金援助の実施、原料採取の地域指定、市場の保護といった三大措置をおこない、日本の新興製糖業資本家を支援し保護した。このため、日本の資本家は競って台湾に投資するようになった。製糖業は台湾を最も代表する産業となり、その生産量は絶えず増加し、最盛期には百五十万トン近くにも達し、台湾を世界的な砂糖王国の一つとなした。
工業化への進展
日本植民地統治時代、台湾経済は農業を中心とし、工業は長いあいだ農業に付随し農産品の加工が主たるものとなっていた。一九三〇年代より日本は華南や南洋を進出目標とした南進政策の必要性から、総督府は台湾の工業化政策を推進するようになり、軍需に関連する基礎的工業を発展させ、台湾を日本南進の補給基地となした。
工業化の結果、農産品加工業の継続的発展のほか、化学・金属・機械工業など重化学工業が顕著に成長し、台湾を半農業半工業社会に転換させた。
〈出典〉
『認識台湾』①
『認識台湾』②
『認識台湾』③
韓国(35年)よりも長い間、植民地支配を行った台湾(50年)において、国民はおおむね親日的であり、反日一辺倒の韓国と好対照を見せるのは、やはり「教育」によるところが大きいと思われます。
同じ世代の白善ヨプ将軍が「親日派」(売国奴)として非難され、破墓の危険にさらされている(リンク1、2)のに対し、終生「親日派」を自任していた李登輝元総統は、今も多くの台湾国民から敬愛されているとのことです。
ご冥福をお祈りします。
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