5月のある日曜日、90歳の伯母と昼御飯を食べていたときのこと。
「最近、虫が少ないわね」
「蚊はこれからでしょう」
「昔は五月といえば、蝿がぶんぶん飛んでたものよ」
「うるさいは、五月蝿いって書くね」
五月蝿いを「うるさい」と読むことを私が覚えたのは、小学校六年生のときに読んだ、夏目漱石の「吾輩は猫である」だったような。
「水溜まりもないし、肥溜めもないし、便所も水洗になったからね」
子供の頃の記憶が蘇ります。
わが家には棕櫚の木があって、棕櫚の葉で作った自家製の蝿叩きが常備されていました。小学生だった私は、その蝿叩きをもって、ちゃんばらよろしく、よく蝿を叩いたものでした。
家の中の蝿をとりつくすと、蝿を求めて庭に出ました。子供の頃、庭で番犬を飼っていて、庭には犬が排出した固形物がごろごろしていたので、蝿には事欠きませんでした。
そのうち、蝿の死骸で遊ぶことを覚えました。
蟻の巣の近くに落とし、蟻が巣穴に蝿を運んでいくのを観察したり。
庭の片隅に網を貼っている女郎蜘蛛の巣に蝿をひっかけ、蜘蛛が尻から出す糸で蝿をぐるぐる巻きにするのを観察したり。
蟷螂(かまきり)がいれば、蝿の死骸を糸でつるして蟷螂の鼻先にぶらさげ、鎌でかかえこむ様子、食べる様子を観察したり。蟷螂が蝿を食べるときに、カリカリと音がするのは驚きでした。
もっと面白かったのが、庭の主である蟇(ひきがえる)。蟇の目というのは、動いているものしか捉えることができないんだそうですね。それで、糸で吊るしてそっと近づけても反応しない。ぶらりぶらりと動かしてやると、突然機敏になり、長い舌を出して瞬く間に捕食します。
わが家の庭は、ちょっとした野生の王国でした。
そのうちに、死んだ蝿では面白くなくなって、半殺しで生け捕りにする技術も身につけたりしました。蝿にも種類があって、イエバエ、ギンバエ、ショウジョウバエ…。
「兎の眼」という小説に、蝿を集めている少年が出てきましたから、昔は私のように蝿で遊ぶ少年も少なくなかったのかもしれません。
でも、小学校の「グループ日記」(班で一冊のノートに毎日交替で日記を書くやつ)に、この蝿の遊びのことを書いたら、友だちに笑われ、父兄の間にも広まって、母が恥ずかしい思いをしたそうです。
今や、蝿も、蜘蛛も、蟷螂も、蟇も滅多に見なくなり、母も世を去りました。
五月の蝿のいない静かな食卓で、90歳の伯母と会話しながら、時の流れをしみじみと実感したのでありました。
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いい経験をされましたね。
>鶏の生肉
そんな方法があったとは!
蝿溢れる暮らしには縁遠かったんですが、
小学生の頃に山村留学で1年間田舎生活をしていました。
当時夏頃、ホームステイ先の家の裏庭に大きな女郎蜘蛛がいて、
こいつをやたらと可愛がっていました。
時々こっそりと鶏の生肉を巣の近くに置いて小蝿を湧かせ、
大量に餌を供給したりしていました。
「お前らも繁栄するんだから、許せ」と言い訳しながら、
蜘蛛がせっせと吸い取る様子を眺めていたのを思い出しました。
あるいは同じ山奥で、毎年のことらしいのですが、
窓一面が覆われるほど羽アリが大量発生したりもしました。
移植ゴテですくって鯉の池に放り込むのですが、
あまりの多さに、最初は飛びついた鯉も食べきれず、
また翌朝には水面に油のようなものが浮いていました。
懐かしい思い出が揺り起こされました。
ありがとうございます。