朝ドラ「エール」の主人公が、ビルマに「慰問」に行くことになりました。しかし、この時期のビルマでは、英印軍の反撃が始まっており、慰問を受け入れるような状況になかったため、主人公は後方での待機を命じられて無為な日々を過ごす。そのような状況に耐え切れず、前線への慰問を志願して、インパール作戦に動員された師団を追い、そこでかつての恩師に再会。しかし、恩師は目の前で戦死する…。
ビルマ戦線については、かつて慰安婦問題関連で多少調べたことがあります。ここであらためて、ビルマ戦線に関する本を読み返しました。
塩川優一著『軍医のビルマ日記』(日本評論社、1994年)
この本は、ビルマ戦線に軍医として参戦した著者の日記と著者自身による解説によりなっています。
ビルマ戦線については、かつて慰安婦問題関連で多少調べたことがあります。ここであらためて、ビルマ戦線に関する本を読み返しました。
塩川優一著『軍医のビルマ日記』(日本評論社、1994年)
この本は、ビルマ戦線に軍医として参戦した著者の日記と著者自身による解説によりなっています。
著者は、1942年に陸軍軍医学校を卒業し、12月にビルマに出征。本書は、第18師団(菊兵団)の軍医として、ミイトキイナ、タリ、メンイエ、フーコン、マンダレー、メイミョー、ナムカム、シッタンなどビルマ各地を転戦、1945年6月にベトナムのサイゴンには入り、そこで終戦を迎えます。その後、捕虜収容所の軍医を経て、46年5月に復員するまでの3年半の記録が、日記、そして日記が失われた部分は記憶によって補いながら、克明に綴られています。
一般に、ビルマ戦線の最激戦地はインパールというのが定説になっていますが、著者によれば、連合軍は、インパール作戦が補給困難で失敗することを見越し、あまり力を入れなかった。最も重視していたのは、インドと中国を結ぶ輸送路(レド公路)で、著者が従軍した菊兵団が投入されたフーコン渓谷、ミイトキイナ、ナムカムだったそうです。
実際、インパール作戦は投入兵力85,600人のうち3万人が死亡(死亡率35%)であったのに対し、菊兵団は31,444人中20,394人が死亡し、死亡率が65%に達したことからもわかります。また、インパール作戦での死者は、戦闘による死者よりも、餓死や病死のほうが多かったとのこと。
著者は、常に最前線に派遣され、野戦病院の軍医として、傷病兵の治療、時には死亡者の埋葬などにあたり、多くの戦友が戦傷や疫病、飢餓などによって、次々と死んでいくさまを目の当たりにしながら、軍医としての任務を遂行、自らも複数回、負傷や疫病に倒れながら、九死に一生を得て帰還しました。
本書には、慰安所や慰安婦に関する記述は皆無でした。著者が派遣された前線に慰安所はなかったのか、あっても本をまとめるにあたって削除したのかはわかりません。
しかし、以前ご紹介した「慰安所管理人の日記」に記された、「穏やかな日常」との違いに驚きます。後者が、まだ日本軍が優勢だったころの「後方」での生活だったことも、その理由の一つでしょう。
朝鮮半島出身兵についての記述は、ところどころにあります。たとえば、1945年3月29日の日記。
…「狼」兵団の、砲撃による戦傷者10名収容。軍医皆、疲労せぬか知らぬ顔なれば、我れ手当てに努む。「(傷の手当ては)分隊長殿を先にしてあげて下さい」と叫ぶ兵あり。朝鮮兵なり。我れ感激す。最近、士気一般に低下、かかることをいふ兵は見ざる事久し。
朝鮮兵は、日本兵とともに、連合軍と戦っていたのです。
最終的に、ビルマ戦線全体では、ビルマ派遣軍328,501人中、190,899人が死亡、137,602人が生還したとのことです(死亡率58%)。
朝ドラ「エール」の中で、喫茶店のマスターの「人類は生まれたときから戦争をしてきた。ギリシャ神話では神々も戦争をしていた」というセリフが出てきます。
ただ、20万年前のホモ・サピエンスがが発祥したあと、農耕や牧畜が始まるまでの10数万年の間、ヒトは狩猟採集生活をしていました。人口密度が極めて低かったため、実際には、ヒト同士の戦闘はほとんどなかったと言われています。
戦争が日常化したのは、「農耕革命」以後のこと。天敵のいない人類にとって、「人口の増えすぎ」を調節する機能は、おもに戦争と感染症が果たしていた、ということは以前論じたことがあります。
新型コロナで「生善説」、「死悪説」について考える
この記事を書いたとき、新型コロナによる死者は、全世界で23万人(うち米国が6万人)にすぎませんでした。
現在、全世界の死者数は110万人以上、うち米国が22万人とのことです。この感染症は、確実に人類の「人口調節機能」を果たしていると言えるでしょう。
「慰安所日記」について関心がある方は、以下の記事をご覧ください。
慰安所日記を読む(1) 時代背景
一般に、ビルマ戦線の最激戦地はインパールというのが定説になっていますが、著者によれば、連合軍は、インパール作戦が補給困難で失敗することを見越し、あまり力を入れなかった。最も重視していたのは、インドと中国を結ぶ輸送路(レド公路)で、著者が従軍した菊兵団が投入されたフーコン渓谷、ミイトキイナ、ナムカムだったそうです。
実際、インパール作戦は投入兵力85,600人のうち3万人が死亡(死亡率35%)であったのに対し、菊兵団は31,444人中20,394人が死亡し、死亡率が65%に達したことからもわかります。また、インパール作戦での死者は、戦闘による死者よりも、餓死や病死のほうが多かったとのこと。
著者は、常に最前線に派遣され、野戦病院の軍医として、傷病兵の治療、時には死亡者の埋葬などにあたり、多くの戦友が戦傷や疫病、飢餓などによって、次々と死んでいくさまを目の当たりにしながら、軍医としての任務を遂行、自らも複数回、負傷や疫病に倒れながら、九死に一生を得て帰還しました。
本書には、慰安所や慰安婦に関する記述は皆無でした。著者が派遣された前線に慰安所はなかったのか、あっても本をまとめるにあたって削除したのかはわかりません。
しかし、以前ご紹介した「慰安所管理人の日記」に記された、「穏やかな日常」との違いに驚きます。後者が、まだ日本軍が優勢だったころの「後方」での生活だったことも、その理由の一つでしょう。
朝鮮半島出身兵についての記述は、ところどころにあります。たとえば、1945年3月29日の日記。
…「狼」兵団の、砲撃による戦傷者10名収容。軍医皆、疲労せぬか知らぬ顔なれば、我れ手当てに努む。「(傷の手当ては)分隊長殿を先にしてあげて下さい」と叫ぶ兵あり。朝鮮兵なり。我れ感激す。最近、士気一般に低下、かかることをいふ兵は見ざる事久し。
朝鮮兵は、日本兵とともに、連合軍と戦っていたのです。
最終的に、ビルマ戦線全体では、ビルマ派遣軍328,501人中、190,899人が死亡、137,602人が生還したとのことです(死亡率58%)。
朝ドラ「エール」の中で、喫茶店のマスターの「人類は生まれたときから戦争をしてきた。ギリシャ神話では神々も戦争をしていた」というセリフが出てきます。
ただ、20万年前のホモ・サピエンスがが発祥したあと、農耕や牧畜が始まるまでの10数万年の間、ヒトは狩猟採集生活をしていました。人口密度が極めて低かったため、実際には、ヒト同士の戦闘はほとんどなかったと言われています。
戦争が日常化したのは、「農耕革命」以後のこと。天敵のいない人類にとって、「人口の増えすぎ」を調節する機能は、おもに戦争と感染症が果たしていた、ということは以前論じたことがあります。
新型コロナで「生善説」、「死悪説」について考える
この記事を書いたとき、新型コロナによる死者は、全世界で23万人(うち米国が6万人)にすぎませんでした。
現在、全世界の死者数は110万人以上、うち米国が22万人とのことです。この感染症は、確実に人類の「人口調節機能」を果たしていると言えるでしょう。
「慰安所日記」について関心がある方は、以下の記事をご覧ください。
慰安所日記を読む(1) 時代背景
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