「虎に翼」の朝鮮人放火事件で、証拠として出された手紙の一部にひっかかりを覚えた寅子は、まず裁判所事務員の小野(朝鮮語が少しできる)に、つづいて東京に住むかつての同級生の香淑に、朝鮮語の表現について尋ねます。その結果、検察が提出した日本語訳が間違っていることがわかりました。
내가 몹시 속을 태운 탓에 네가 내 걱정도 많이 했을 터이다.
私が中を完全に燃やしてしまったせいで心配をかけただろう。
この部分は、正しくは、
私がひどく気を揉ませたせいで、お前が私のことをずいぶん心配しただろう。
でした。
寅子は、弁護人、検察の双方に翻訳の正確性について質問し、その結果、検察側も誤訳を認め、手紙に証拠能力がないことがわかりました。
さらに、時限装置として出された証拠(油の沁みたひも)も疑わしいことがわかり、朝鮮人兄弟(顕洙、広洙)の無罪判決が下り、検察も控訴しなかったことから、無罪が確定しました。
証拠として出された朝鮮語の手紙は、現物ではなく、裁判に出すために浄書されたもののようです。その際、内容は忠実に写したはずですから、原文の表現はそのまま反映されていると思われます。
原文の朝鮮語を読むと、いくつかのことに気がつきます。
手紙が縦書きで書かれていること
朝鮮語が漢字・ハングル混じりで書かれていること
漢字の中に旧字体が混じっていること
朝鮮語の誤りがほとんどないこと
この事件が起こったのは昭和27年(1952年)。
韓国政府は、植民地支配から解放されて早い時期に「ハングル専用、横書き」の方針を打ちだし、学校の教科書は原則的にハングルだけで書かれ、それまでと違って「横書き」が採用されました。しかし、新聞や一般書籍はその後も長らく「ハングル漢字混用、縦書き」のままでした。
手紙もまた、漢字交じりで縦書きで書かれています。
手紙に出てくる漢字は、
広洙、健康、弊、自由、解放後、故郷、顕洙、責任感、動亂、希望、店房、罪責感、喪失感、法廷、爲、空中、幸福、兄、顕洙
このうち、旧字体で書かれているのが、
亂(乱)、 爲(為)
の二つ。旧字体があるのに新字体で書かれているのが、
広(廣)、郷(鄕)、福(福)
の三つです。郷と福は、新旧の違いがほとんどありません。新字体は、別の字体というより、活字と手書きの違いです。
広/廣はかなり違いますが、広は正字に対する俗字として戦前も使われていた。旧字体の教育を受けていた人が使っても不思議ではありません。
朝鮮語の手紙を訳したのは、朝鮮語のある程度できる日本人なのでしょう。
속을 태우다 (気を揉ませる、心を苦しめる)
を、
「中を燃やす」
と誤訳したという想定は、「ありそうなこと」です。なにしろ、手紙は放火を疑われている人が書いた手紙ですからね。意図的な誤訳ではなく、うっかりミスでしょう。
全体として、ドラマの中の設定はとてもよくできていると感じました。
唯一、難点をいえば、戦後7年というこの時期に、日本にいた朝鮮人が、これほど上手な朝鮮語の手紙を、ほんとうに書けたのかということ。
顕洙と広洙の兄弟は「幼少期に家族とともに朝鮮から来日し、スマートボール場を営んでいた」ということです。
来日した正確な年はわかりません。1952年の時点で30代で、「幼少期」に来日したとすれば、1930年代、10歳にならない頃に来たのでしょう。当時、朝鮮からの渡航は制限されていましたから、おそらく密航でしょう。朝鮮半島での暮らしが苦しかったので、日本に渡って来たと思われます。朝鮮半島で、満足な教育を受けていなかったのではないでしょうか。もし学校に通っていたとしても、当時の朝鮮の学校は、日本語で授業が行われており、朝鮮語の授業は1週間に1~2時間程度。
来日後に戦前の日本の小学校に通っていたとすれば、学校で朝鮮語を学ぶ機会はありません。戦後はなおさらですね。
兄弟(やその両親)にとって、朝鮮語は母語ですから、学校で習わなくてもしゃべれます。しかし、「読み書き」となると、そうはいきません。
顕洙と広洙が、1952年に、ドラマに出てくるような手紙を書いたり読んだりできるというのは、きわめてレアな事例といえます。
森田芳夫『韓国における国語・国史教育』(1987年、原書房)によれば、1930年の朝鮮半島における国勢調査で、ハングルの読み書きができた人は以下のようになっています。
①かな、ハングルの読み書きができる人:6.8%
②かなのみの読み書きができる人:0.03%
③ハングルのみの読み書きができる人:15.4%
④かな、ハングルともに読み書きできない人:77.7%
非文解率
なお、解放の年、1945年のハングル非識字率は78.0%(文教部『文教月報』第49号、1959年11月掲載統計)で、1930年からほとんど変わっていません。
上のような経歴の顕洙と広洙が、1952年時点で朝鮮語を正しく読み書きできるためには、両親がかなりの知識人で、幼少期から学齢期の息子たちに、学校教育とは別に、しっかりとした朝鮮語教育を行っていたということになりますが、あまり現実的ではありません。
なお、手紙の中に、
解放後、すぐ故郷に帰っていれば、という責任を絶えず感じていた。この動乱の中で、もはや帰る希望もなくなった…
という一節があります。
「この動乱」というのは、1950年に北朝鮮の南侵で始まり、朝鮮半島全体を荒廃させたあと、1953年に「休戦協定」が結ばれた「朝鮮戦争」を指します。
現在、韓国では「韓国戦争」という正式名称で呼ばれますが、1952年当時は「朝鮮動乱」、「ユギオ動乱」などと呼ばれていました。ユギオというのは北が南侵を開始した6月25日の6・25を朝鮮語読みしたものです。
日本の敗戦後、日本で暮らしていた朝鮮人たちは、解放後の混乱した朝鮮半島の噂を聞き、状況が落ち着いたら故郷に帰ろうと思っていた人々も多かった。
しかし、祖国はイデオロギー対立で韓国と北朝鮮という二つの国家が成立、その後朝鮮戦争が勃発し、半島全土が荒廃して、韓国は「世界最貧国」にまで落ちました。
一方、北朝鮮は、「地上の楽園」などと喧伝されており、日本の新聞の多くもその宣伝を鵜呑みにして、それに騙された多くの人が「帰還」しましたが、帰ってみてわかったのは、北朝鮮は「楽園」ではなく「監獄国家」だったということ。
ドラマの顕洙と広洙が、その後どのような人生を送ることになるのかわかりません。総連の宣伝に騙されて「北送」されることがなければいいのですが。
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