犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

帝大を卒業した朝鮮女性

2024-05-23 23:01:34 | 朝ドラ

写真:東北帝国大学法文学部

 二つ前の記事で、『帝国大学の朝鮮人―大韓民国エリートの起源』(鄭鍾賢著、渡辺直紀訳、慶応義塾大学出版会、2021年)という本を紹介しました。

 その中に、戦前、内地の帝国大学を卒業した女性についての記述がありましたので、以下に紹介します。

 1926年、現在のソウルに京城帝国大学(京城は植民地時代のソウルの名称)が開校しましたが、当時、日本には東京、京都、東北(仙台)、九州(福岡)、北海道(札幌)の5つの帝国大学がありました(名古屋、大阪はその後に開校)。

 東京帝国大学、京都帝国大学は、入学資格を旧制高校・大学予科(ともに男子校)卒業者にしていたので、女学生を受け入れていませんでした。

 一方、東北帝大、九州帝大、北海道帝大は少数ながら女学生を受け入れていた。その中に、朝鮮半島出身の女性もいたのです。

 まず、1927年に東北帝大に入学した辛義卿(シン・ウィギョン)

 辛義卿は日韓併合(1910年)よりも前の1897年に出生ですから、1914年生まれの三淵嘉子よりかなり年上。

 クリスチャンの家庭に生まれ、母親は蓮洞女学校(貞信女学校の前身)の教師。

 母が教える貞信女学校を卒業した後、同校の教師になります。

 三・一運動(1919年)の後、秘密の独立運動団体を組織し、上海の独立政府を支援したりしましたが、同僚の密告により検挙され、約2年間獄中生活を送ります。

 釈放後、朝鮮女子基督教青年聯合会の創設に参加(1922年)、梨花女子専門学校で英文学を専攻(副専攻で歴史)、梨花女専を卒業後の1927年に渡日して、東北帝国大学に入学。そこで西洋史を専攻しました。東北帝大が女子(日本人)を初めて受け入れたのは、1913年だそうです。

 辛義卿は1930年に東北帝大を卒業したあと朝鮮に戻り、1931年に、東北帝大進学の理由を次のように語っています。

 誰よりも惨めな状況において生きる朝鮮女性は、それ自体の将来のために学ばなければならないことが現状であります。それだけでなく、国家や社会の根本である家庭を任される女性としては、できるだけ高い教養が必要であります。私はこの学びには二つあると思うのですが、女性全体に合った一般的な教育と同時に、特殊な(専門的な)教育がございます。ある人たちは、女性の高等教育が不要であるとし、一般的な教育だけを主張します。このような主張がまかり通っている間、人類社会は不 具の社会、女性の伝道はいまだ暗黒でしょう。私は女性の高等教育を必要と考えて、仙台に行きました。また学業を続けた理由もここにあります。

 (男女)共学にしてこそ、学問の深い味を得ることができ、将来の事業に備えるためにも、十分に男性を理解できる機会になるだけでなく、女学校で勉強するよりも、いろいろと刺激が多く、自然と学問研究に熱心に臨むようになれたので、東北帝大進学の選択は正解でした。

 辛義卿は同年(1931年)、東北帝大在学中に知り合った朴ドンギル(地質学者)と結婚、子育てと家事をしながら、母校梨花女子専門学校で教鞭をとり、教会活動も熱心に行いました。植民地時代末期、戦時動員体制下では、戦争に協力しないために、すべての公職から退いて家庭に隠遁。

 解放後の米軍政下では、南朝鮮過渡立法議院で初めての女性議員となり、大韓民国政府樹立後は、母校やソウル女子大学での教職、教会活動に従事しました(1988年没)。

 独立運動を支援し投獄を経験、東北帝大卒業後も日本の体制に協力することなく、戦後は教職にあった辛義卿について、『帝国大学の朝鮮人』の著者鄭鍾賢は、「自らを同時代の民族代表と自認して帝国の権力を追い求めた、男性エリートたちが顧みなければならない鑑である」と称えています。

 帝国大学に進学した朝鮮出身女性の二人目は、九州帝大に進んだ趙賢景(チョ・ヒョンギョン)


九州帝国大学法文学部

 趙賢景は1906年生まれ。両親など家庭環境についての資料はありませんが、梨花女子専門学校を卒業後、女子高等普通学校の教師になり、在職中の1929年に九州帝大法文学部西洋史学科に合格。

 先の辛義卿が東北帝大に入った2年後です。

 1931年12月の雑誌『新女性』の座談会で、趙賢景は、家父長的で男性中心的な朝鮮社会を厳しく批判、次のように述べました。

 女性が家庭の奴隷として満足せず、社会というより大きな舞台で、子供を背におぶってでも外に出て、どのような場でも活躍しなければなりません。
 一日に十四時間搾取されるという工場労働者の事情もきわめて残念だが、実際の家庭内で一日二十四時間なら二十四時間すべて、労働で一貫して働くのは、私たち女性の考えとして、当然の労働であると感じる方が多いのは、いつも寂しさを感じています。一家庭を維持していくためには、共同で夫婦が責任を負うべきですが、夫人一人だけに重要な責任をすべて負わせて、そうして、よくやったこともできなかったことも、ただいたずらに難癖ばかりつけますが、これこそあまりに極端な矛盾ではないでしょうか。


 趙賢景は九州帝大を卒業後、同じ九州帝大法文学部卒の夫と結婚。夫が満州国の経済官僚(事務官)として赴任したとき、いっしょに満州に移住しました。夫は、解放後、朴正煕政権時に財務部、逓信部の長官(大臣)などの要職を歴任。 趙賢景は1963年、培花女子高の校長在職時に57歳で死去したとのことです。

 3人目は、北海道帝大で植物学を学んだ金三純(キム・サムスン)

 金三純は1909年生まれ。大地主の家柄に。三男四女の三女として生まれました。父親は「女も学ぶべきだ」として公立の昌平普通学校に女子クラスを作らせて娘たちを入学させたそうです。

 金三純は昌平普通学校、昌平高等普通学校を経て京畿高等女学校に進学。卒業後、日本に渡り、1933年に東京女子高等師範学校理科を卒業。帰国後、進明女子高等師範学校、母校の京畿高等女学校で約6年間教職(数学・化学)にありましたが、再び渡日。1939年に東京女子高等師範学校研究科を卒業した後、1941年北海道大学植物学科に入学し43年に卒業しました。このとき、34歳。


北海道帝国大学理学部

 金三純が日本で最初に入った東京女子高等師範学校の教授には、日本で女性として最初に帝国大学(東北)に入学した黒田チカと、最初の女性博士保井コノがおり、金三純は彼女たちに尊敬と憧れ、競争意識をもっていたようです。

 金三純は、北海道帝国大学で学士学位取得後も、博士学位を目指して、農学部大学院で研究を続けましたが、戦争が激しくなると帰国。解放後は、ソウル大学の師範大学(教育学部)、農科大学(農学部)、文理科大学(文理学部)で講師を歴任。

「博士学位」への未練があり、渡日を企図したが朝鮮戦争で果たせず、57歳になった1961年、三たび渡日して北海道大学農学部大学院研究生を経て、九州大学農学部に移り、博士学位を取得します。

 帰国後、金三純はソウル女子大学教授として教えるかたわら、韓国に「韓国菌学会」を創設し、会長を歴任。日本から種菌を取り寄せ、韓国に合ったヒラタケの人工栽培法を農家に普及させ、韓国のキノコ産業の基礎を築いたそうです。その後も『韓国のキノコ図鑑』(1990年)を出すなど、91歳で亡くなるまで研究を続けたとのこと。

 飽くことのない探求心で、学者人生をまっとうしました。

 配偶者の姜世馨(カン・セヒョン)は解放後の韓国第三代国会議員、三人の男兄弟もみな国会議員。ハンナラ党から大統領に出馬した李会昌(イ・フェチャン、前首相)は、彼女の甥だそうです。

 こうして見てくると、3人の帝国大学出身者の人生はそれぞれです。

 帝国大学を卒業しながら、日本の権力に協力しようとしなかった辛義卿、結婚後に日本帝国の官僚にしたがって満州に行った趙賢景、学者人生を貫いた金三純。

 一方の三淵嘉子は、太平洋戦争中に元書生だった和田芳夫と結婚し、1943年に長男を出産するも、夫は召集先の中国で発病し、1946年に帰国後、長崎の陸軍病院で戦病死。長男を女で一つで育て、やはり戦死した弟の妻子の面倒を見たと言いますから、大変な苦労です。

 今、植民地時代の朝鮮人たちは、内地人から差別されたとか、いわゆる従軍慰安婦・徴用工・挺身隊(女子の労務動員)などがクローズアップされています。

 しかし、朝鮮半島では「徴兵制」は事実上実施されず、朝鮮が米軍の空爆にさらされることもなかったため、男性の戦死は少数(志願兵、軍属の戦死はいました)にとどまったことも事実。

 日帝時代(植民地期)の朝鮮の生活の悲惨さを誇張するのは史実に反すると思います。

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