もう昔のことですから、小学校の国語の授業でどんな勉強をしたのか、記憶が曖昧です。教科書に出てきた新しい漢字をノートに20回書いて提出し、一週間に一度ぐらい、漢字の小テストを受けていたような気がします。
で、たとえば「湖」という字だったら、最初にさんずいを20個書き、次に「古」を20個書き足し、最後に「月」を書くというようなこともしていました。子供心に、そんなやりかたが「早くて楽」と思ったのでしょう。
文法を勉強したのは、中学校に入ってからだったと思います。
週に5~6時間あった「国語」の授業の中で、毎週一回、「国文法」の時間がありました。教科書は「口語文法」というタイトルの薄い本。品詞ごとの学習になっていたと思います。
正直言って、なんでこんなことを覚えなくちゃならないんだ、と思いながら、「かろかっくいいけれ」(形容詞の活用語尾)とか、「がのをにへとからよりでや」(格助詞)などを機械的に暗記しました。これらは一生私の記憶からなくなることはないでしょう。
これが無意味なのは、こんなことを覚えなくても、形容詞の活用を間違えることはないし、助詞を使い誤ることがないからです。
少し前に、言語学者マウトナーの
「文法の誤りは、文法が発明される以前にはまったくなかった」
という言葉を紹介しました。
これは、「人は母語の使い方を間違えることはない」「そもそも母語には文法がない」という主張がこめられています。
「らぬき言葉」というのがありますね。
見ることができるという意味で「見れる」、来ることができるという意味で「来れる」などという言い方です。
これは、従来、文法的に誤っているとされていました。なぜ誤りかというと、文法学者が「見られる」「来られる」が正しいと決めたからです。そういう決まりが発明される前までは、「見れる」「来れる」が誤りとされることはなかった。マウトナーの言葉は、そうした事情を表しています。
「言葉は変化する」ということも、最近よく言われます。
言葉が変化すれば、文法も変化するのが正しい。言葉の変化に合わせて「文法」も修正されていくべきです。ところが、文法の修正は必ず後手に回る。そのため、「変化」は当初は「誤り」とされ、その後、「誤用が定着した」といって、追認されることになります。
少し前に、平成27年度の「国語に関する世論調査」が発表されました(→リンク)。
そこに、ら抜き言葉についての調査結果が載っています。
「食べる」「来る」「考える」「見る」「出る」について、その可能形をどのように言うかのアンケート調査です。食べる、来る、考えるについては過去20年の、見る、出るについては過去10年の経年変化がわかります。結果は、
こんなにたくさんは( )。
食べられない/食べれない/どちらも使う
平成27年度 60.8%/32.0%/6.8%
平成17年度 66.7/26.6/6.1
平成7年度 67.3/27.2/5.0
朝5時に( )。
来られますか/来れますか/どちらも使う
平成27年度 45.4/44.1/9.8
平成17年度 52.7/35.4/10.6
平成7年度 58.8/33.8/6.3
彼が来るなんて( )。
考えられない/考えれない/どちらも使う
平成27年度 88.6/7.8/2.9
平成17年度 89.3/5.7/3.0
平成7年度 88.8/6.7/3.1
今年は初日の出が( )。
見られた/見れた/どちらも使う
平成27年度 44.6/48.4/6.5
平成22年度 47.6/47.2/4.9
早く( )?
出られる/出れる/どちらも使う
平成27年度 44.3/45.1/10.2
平成17年度 48.0%/44.0%/7.5%
「食べる」「来る」「考える」は、いぜんとして「ら入り」言葉が多数派ですが、「見る」「出る」に関しては、この10年で「ら抜き」言葉が逆転しています。
「誤用」が多数になったとき、文法学者がそれを「誤用」と言い張り続けていいのか。それとも文法のほうを修正すべきか。私は後者だと思います。
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