犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

『帝国の慰安婦』第2版の序文

2016-05-01 23:33:46 | 慰安婦問題

 続いて、2015年6月に出た第2版(削除版)の序文です。

植民地のアイロニー

1.

 惨憺たる心境で本書を出す。

 2014年6月16日、本書はナムヌの家の顧問弁護士と所長らによって慰安婦ハルモニ9名の名で告訴された。慰安婦ハルモニの名誉を毀損したという刑事告訴、2億7000万ウォンの損害賠償を求める民事訴訟、そして販売禁止と慰安婦ハルモニへの接触禁止を要求する仮処分申請だった。最初の告訴状で原告側は、本書の109か所をとりあげ、「虚偽」であると主張した。

 初版の序文に書いたように、出版にあたって若干の心配はあったが、告訴は予期せぬ事態だった。それも刊行後10か月も経ってのことだった。出版後、本書の問題提起を真剣に受けとめた書評やインタビューが少なくなかったので、なおさらだった。本書を通じて慰安婦ハルモニの苦痛をよりよく理解できたという感想を送ってくる読者も少なくなかった。

 しかし8か月後の2015年2月17日、ソウル東部地方裁判所民事21部は、仮処分申請を「一部認定」し、原告側が修正を求めた53か所中で34か所を「削除しなければ出版してはならない」という決定を出した。ただし、残りの19か所と慰安婦ハルモニへの接触禁止の仮処分申請は棄却された(裁判の経緯と詳しい資料はインターネットサイトhttps://www.facebook.com/parkyuha,https://www.facebook.com/radicalthirdを参照されたい)。

本書は、その決定により初版本の34か所を○印で伏せ字処理した削除版だ。

 裁判所は棄却した19か所について、「憲法上保障されている学問の自由または表現の自由の保護範囲にあり、こうした見解については裁判所が事前にその表現を禁止するよりも、自由な討論と批判を通じて市民社会が自ら問題を提起し、これを健全に解消することが望ましく、韓国社会の市民意識は十分にこのような解決が可能なほど成熟していると思える」と述べた。当然、本書全体に対してそのような決定が下されるべきという意味で、出版社は「一部認定」決定を承服せず、異議を申し立てた。そして裁判所の言う「自由な討論と批判」のある公論の場のために、削除版ではあるが、あらためて出版することにした。
 しかし、この削除版は、実は体制と国家に反する思想を検閲した日帝強占期の姿でもある。結局、植民地体験とその体験が生んだ対立を考察しようとした本書は、意外にもわれわれが依然として植民地時代の「残滓」の中で生きていることを示す結果になるという、極めてアイロニカルな本になってしまった。

2.

 告訴状には、この本の後記に記した、2008年に韓国に伝えられた在日同胞学者の認識の影響が強く表われていた。また、私が以前『和解のために』を書き、『帝国の慰安婦』を書き、それにとどまらずシンポジウム(2014年4月、その抜粋は付録に所収)を開いた、と記されていた。だから「(朴裕河が)今後もこのような活動を続けるだろう」、「『帝国の慰安婦』の出版を禁止しなければ」「また新しい本を出版」するかもしれないから、「朴裕河の活動を放置すれば、歪曲され汚染された日本軍被害者像が韓国と日本社会に定着するだろう」とまで書いていた。「結局、韓国社会の内なる葛藤は、いっそう増幅されると同時に、日本との慰安婦問題解決にも悪影響を及ぼすかもしれない」ので、そのような「社会的害悪」を及ぼすことになる「潜在的な危険性を見逃してはならない」というのが告訴状の要旨であった。

 要するにこの告訴は、本書に限らず、私の社会的活動そのものを抑えようとした告訴であった。原告側は、私が本書であたかも慰安婦ハルモニを非難したかのようにマスコミに情報を流し、これを見て怒った群衆は私に石を投げつけた。特にナムヌの家の所長がこれを先導し、私を「日帝の売春婦」と書いたツイートを拡散させたことは、この告訴の構造を明瞭に見せてくれる。仮処分申請決定直前に城南市の市長が私を親日派だと名指しして、ふたたび数千人の市民の非難を浴びる結果になったのは、本書で指摘した進歩の問題が決定的に表れたものでもあった。

3.

 告訴状には、私が慰安婦ハルモニを「自発的な売春婦」呼ばわりしたと書かれていた。だが、本書を読めばわかるとおり、私はそのように書いたことはない。指摘された内容は、ほとんどが基礎的な読解力の不足や意図的な歪曲によるものだ。だが、裁判所はこの部分も削除すべき所だと認めた。

 原告側は特に「売春」という言葉を問題視した。だが、私が本書で言おうとしたのは、「少女」のイメージに固執してきた人々と、「売春婦」とだけ主張してきた人々が、同じように性に関わる問題に対する禁忌と差別の意識にとらわれているという点だった。まさにそのために長い間当事者が暗闇から出られなかったのだということが、私の言いたかったことだ。告訴は、そのような意味でも、私が本書で指摘した問題を克明に示すことになった。

 原告側はまた、「同志的関係」を問題視した。だが、私はこれについて、「もちろんそれは、男性と国家の女性搾取を隠す修辞にすぎなかった」とはっきりと書いた。何よりも「同志的関係」とは、朝鮮人ではなく日本人として動員された、という意味であった。

 また、原告側は本書が、「売春を根拠に日本政府の法的責任を否定した、日本政府を免責した」と言っているが、私は日本の責任を否定してはいない。ただ日本の責任を問う理屈が、これまでの研究者や支援団体とは違っただけだ。

 私の立場は、「日本に責任を問うためには、事実を正しく知らなければならない」ということだ。本書と、これまでの支援団体や研究者との違いは、たんに「責任の問い方」とその結論を導くまでの「理屈」にある。それなのに彼らは、自分たちの「解決法」とは異なる解決法を出したというだけで、国家の力を借りて私を抑えようとした。悲しいことは、彼らがかなり以前から、誰よりも国家の抑圧に敏感であり、時には直接的に苦痛を受けた者たちだったという点だ。

 私は本書で、日本に対し、彼らが終わったと言う「1965年の韓日協定の限界」と「1990年代の謝罪、補償の限界」を、論理的に述べた。また、慰安婦が「帝国の維持のために動員された犠牲者だという点においては、彼らと同じく植民支配の犠牲者だ」、「日本は個人に対する法的責任を負った。しかしそれは戦後処理に限られ、植民地支配に対するものではなかった」、「それならば、韓日条約の時代的限界を考えてその補完をすることは、ほかの帝国国家に先立って、日本が率先して植民支配に対する反省を表明することになる」、「それに先立ち、帝国構築のために戦争を起こし、戦争を効果的に遂行するために慰安婦を必要とした国として、日本が慰安婦問題を解決することは、帝国の欲望と支配を、ほかの帝国国家よりも先に反省する意味を持つ。帝国主義へ向かうことになった日本の謝罪は、アジアの統合のためにも必要だ」、「朝鮮を植民地として支配した期間、犠牲になった数多くの人々に対する真心を謝罪の中に入れるべきだ」と書いた。

 それでも原告側は、ひたすら戦争の問題としてのみ扱い、「法的」責任にこだわってきたこれまでの主張に懐疑的だというだけで、本書が「日本の主張を代弁」していると主張し、「日本の極右勢力や安倍首相」と関係があるといった認識を拡散させて国民の反感を誘った。

 しかし2015年4月、支援団体はそれまで主張してきた「法的責任」を要求事項から取り下げた。それまで主張してきた国会での立法ではなく、いくつかの要求を受け入れれば、それを法的責任を負ったこととして認めると。20年以上掲げていた主張を変えたわけだ。

 2015年5月には、歴史学者を含む世界の著名な日本専門家187人が、日本政府に送る公開書簡を発表した。これに参加する学者はその後500人以上に増えたが、声明の内容は本書で私が書いたことあまり変わらない。日本だけでなく韓国と中国の民族主義も批判しており、運動が、当事者である慰安婦ハルモニを疎外する可能性もあるという内容も含んでいる。何より、売春、人身売買という言葉を使っている。支援団体はこれまで、「世界」が自分たちの味方であるかのように言ってきたが、もはや彼らも支援団体の認識にだけ閉じ込められているわけではないことを見せてくれる声明だったのだ。しかし韓国には、韓国批判の部分は省略されて伝えられ、これまた韓国の肩をもったかのように歓迎される、ということが起きた。本書の付録として、その声明を入れたのはそのためだ。

4.

 2014年7月、仮処分申請の審理が始まり、私は7月と9月の二回にわたり本書には使わなかった資料も加えたA4判10枚、150枚の答弁書を提出した。すると原告側は審理期日の延期を求めた。その後10月、原告側は「請求趣旨」を変更し、最初に指摘した109か所を半分以下に減らし、「虚偽」だとしていた最初の指摘を、本書が戦争犯罪を称賛し、植民支配を擁護するという論理を展開している、という主張に変えた。

 秋の終わりには、刑事告訴の調査も始まった。東部地検に五回呼び出され、「犯罪リスト」というタイトルの、53項目の指摘事項について答えなければならなかった。そのときの担当検査は、ずっと私を犯人扱いした。

 しかし仮処分申請と告訴に対する市民社会/学界=公論の場の反応はほとんどなかった。告訴直後に一部の学者と市民が法廷にもちこまれることに対する反対の意思表明をしただけで、関係者と関連の学界の大部分は沈黙した。逆に裁判所の決定を支持する学者もいた。

 私を批判した人々の大部分は、本書が「日本を免罪」しているという考えに捕らわれていた。だが、この本は日本を免罪する本でない。ただ「法的」責任が問えるかどうかを考察しただけだ。

 主に男性の学者が批判してきた理由を私は、「責任の脱ジェンダー化」現象と考えている。また書く機会があると思うが、いろいろな責任の要素の中で、「日本」の責任だけを問うのは、朝鮮人慰安婦問題が民族問題だけでなく性と階級の問題でもあるという事実を隠してしまう。

 もちろん本書にも書いたとおり、朝鮮人慰安婦問題に対する責任は、戦争を起こし国民を戦争に動員した(協力しないわけにはいかない構造を作った)日本にあるということが明らかだ。しかしその中で、そうした国家動員に協力した者たちの責任を問わないならば、全く同じことが起きたとき、われわれは国家が戦争へ駆り立てることを防げない。

 「日本」に対する責任追及は言うまでもなく必要だが、「日本」という固有名に対する執着は、国家や男性や支配層や一般人の責任を問うことを難しくさせる。もちろんそのすべてを実質的な処罰の対象にするわけではないから、そうした責任追及が薄まるわけでもない。

 多重的な責任を見まいとする試みは、事態を単純化し、かえって誤った歴史の繰り返しを防げない。実際に、帝国が崩壊し、帝国主義が終わっても、相変らず少女の人身売買が蔓延し、国境を越えて女性たちが苛酷な状況に置かれるという状況がなくならないことがその証拠だ。過去を考えるのが、繰り返しを防ぐためであるなら、なおさら責任を多層的に問う必要がある。

5.

 韓国語版の発刊直後から準備していた日本語版は2014年11月に出版されたが、朝日新聞をはじめとする、いわゆる「良心的勢力」に属する知識人やメディアは、予想外の関心と好意を見せてくれた。その中一つは、「いまや答えるべきは日本だ」と結んでいた。また「私は本書を読んで日本軍慰安婦ハルモニに対する心の痛みがいっそう深まるばかりだ」(2014年7月31日付『東亜日報』、「若宮の東京小考」)、「日本で評価が高いのは、決して右翼が喜んだからではなく、解決を望む良識ある人々の心をつかんだため」(2015年3月19日付同コラム)という評を見て、私は私の投げた球を彼らが正面から受けとめてくれたと感じた。私は、日本語版には植民支配に対する謝罪を込めた日本の「国会決議」が必要だという内容を追加した。

 しかし、2015年に入ると、そのような好評に反発する日本の研究者/支援団体の批判も始まった。そのほとんどが、2008年に韓国に伝えられた在日同胞の見方につながるものだった。近い将来、これへの反論を書くつもりだが、いつか彼らの中からも私の真意を理解してくれる人たちが出てくれたらいいと思う。日本でこの問題を否定してきた人々が、慰安婦の状況について深い理解と共感を表わしたように。

 この問題に関わってこなかった人々の積極的な関心と客観的な判断も期待する。 韓日両国をよく知りながら発言しなかった人々も議論の主役になってほしい。あなたは誰の味方かを問う暴力的な質問には、「私の友達の味方」と答えて。

 辛い毎日だったが、遠慮なく発言し、擁護してくれる、優れた知性を持った市民や知識人にたくさん出会った。韓国、アメリカ、オーストラリア、そして日本。違う場所にいる数多くの「心」が、私を慰め、力を与えてくれた。彼らがあってこそ、この1年間の敵意と悲しみに耐えることができた。そしていつかは彼らの力が、酸素をたっぷりと含んだ川の水となり、東アジアに友愛と平和の海を作るだろうと信じている。志を同じくするすべての方に本書を捧げる。

2015年6月
訴えられてから1年を迎えて
朴裕河


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