今日は子どもの保育園で「生活発表会」がありました。
真宗園ですので、まずは仏参。
先日の「音楽フェスティバル」の演目を再現したあと、乳児組から順番に歌やお遊戯の発表、後半は劇やダンスなど、一年間いろいろな学習の成果を発表してくれます。
どの演目もただ単に上手下手ということじゃなく「今」の子どもの姿が現れて、さまざまな感慨にふけらせてもらいました。
そんな中、私の子どもが所属する年長組が、ピアニカ演奏、歌の披露に続いて、朗読を聞かせてくれました。
まだまだ頭が柔らかく、しみこむように覚えた詩です。
「雨ニモマケズ」
雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだをもち
慾はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり
そして忘れず
野原の松の林の陰の
小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしは
なりたい
(宮沢賢治)
人間の生き様として道徳的に感じることも出来ますし、真宗にご縁の在る生い立ちから仏教的な意味を読み取ることも出来ます。
これから小学生になる子どもらにはどのように受け取られたのか…もしかしたら難しい言葉だけど意味を追うのではなく、そこにある言霊を追いかけるようにしていたのかもしれません。
今日の私のところでは、「そういうものにわたしはなりたい」のだけど、そうなれていない私の「今」というところで味わっています。
まだ若い子どもたちには、できるだけ目指していってもらうことが素晴らしいことだと思いますし、そういう願いが先生にあったのかなという想像もあります。
しかし、ただ足元を見ずに「理想」としてだけで語られた言葉じゃないんだろうなと。
煩悩に悩まされ、死を恐れ、苦を拒み、どこまでも自分中心でしかないわたしの姿…。
さらには、そんな自分の姿をすら普段はまったく気づかずに、「少しはいいところもあるだろう」と見誤っている姿。
そこに思いが到るとき、「そういうものをこそ、救わずに居れない」という弥陀の本願に立ち返らせてもらえます。
もちろん、宮沢賢治がどういう思いで作ったのかはわかりませんが、その言霊に出合った私には、この詩からも「駄目な自分」と「南無阿弥陀仏」が浮き彫りにされます。
がんばって「そういうもの」になるのじゃなく、「そういうものになりたい」けれどなれない今の私を、「そのまま救うぞ」という阿弥陀仏との出会い。
あとは、お任せの世界ですね。
おそらく意味が良くわかっていないであろう子どもたちの「純粋」で「一生懸命」な言葉だからこそ、ぐっとしみこむものがあります。