コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

真宗 カウンセリング 生活

2009-03-15 23:24:45 | 日常雑感
週末に保育園の保護者会慰労会があった。
私の4人の子どもを預かっていただき、今は高校1年の長女が1歳になる前からだから、かれこれ16年、重なることはあっても途切れることなく、通わせていただいた。
保護者会のほうも「居るだけでいいから」と誘われたのを真に受けて、10年役員をさせてもらっている。
あと数日でこの関係も終わりかと思うと寂しくもあるが、登園するという立場が終わるだけで、今まであった16年分の関わりが消えるわけではない。
4人の子どもそれぞれの成長の中には、この園で経験した多くの時間が活きているし、私自身も多くの先生や親との出会い、なにより多くの子どもたちの笑顔・泣き顔との出会いはかけがえのないものとなって残っている。

そういうことも感じながら、一緒に役員を務めてくださったお母さん方と飲みながらしゃべっていたのだが、これもそれぞれの親子に”ドラマ”があり、今でこそ笑い話で話しているが、さまざまな苦労や悲しみの歴史があることを知った。

よくカウンセリングの話で「いま・ここ」ということを言うが、これは過去を関係ないものにして、「いま・ここ」の姿だけを相手にすることではないと思っている。
泣き・笑い・怒り・喜びを繰り返してきた上での、そういうさまざまな感情を積み重ねてきた上での「いま・ここ」に現れてきている”その人”と関わっていくこと…それが大事な関係。

大事にするのは「いま・ここ」の感情だけれども、そこに居る人まるまる受け止めるってことは、その人の歴史は切っても切れないものだから。

そう思うと、そのひとりひとりが背負ってきたものが愛おしくなってくる。

それはなにも、長い人生を送ってきた大人だけに言えるのではなく、ほんの6年ほどの人生だけど、今卒園を迎える子どもたちにもそれぞれの歴史がある。
その上で、泣き・笑い・怒り・喜ぶ子どもたちに対して、「泣くな・笑うな・怒るな・喜ぶな」とは言えない・
泣いていようが、笑っていようが、怒っていようが、喜んでいようが、それは今でしかなく、後からなぞりなおすことはできないのだから。

そんな一瞬一瞬の積み重ねで”居る”今の子どもたちを受け止めて生きたいし、出会う人たちと関わっていきたい…

とても難しい道だけれども、今そう感じることが、真宗と出会い、カウンセリングと出会い、生活の中で様々な人と出会ってきたものが混然と渦巻いている”私”なんだなと。

もし、この私を通して、真宗からカウンセリング、カウンセリングから生活・人生、生活・人生から真宗、そういう形で出会うご縁になってくだされば、こんなうれしいことはない。


今回の懇親会で、私を知ってもらうためにこのブログやホームページのことを皆さんに宣伝した。
保育園から進学する先はばらばらだけれども、なんらかの形でつながっていけたならこんなうれしいことはない。