コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

日曜礼拝 3月

2009-03-08 23:49:49 | 真宗

今日は日曜礼拝でした。4月からは社会人になるM先生のご法話。
「悪いこころ」ということでのお話です。
小さい子が多いので、たとえもわかりやすい具体的なお話。

「友達の持っているものが欲しいという気持ちがある。
 そう思ったことは、もう盗んでいるのと同じ」
「他の人をうるさいなぁ、いなくなればいいのにと思うことがある。
 そう思ったことは、もう殺したのも同じ」

自分ではそうは思えなく、「いや実際には盗ってない」「殺してない」としかいえないけれど、私の姿を調べつくした仏様の目には、そういう「意業」が悪い種となっていくことを見透かされている。

そういう罪悪深重の身だということを脅しているのではなく、そういうものをお目当てに南無阿弥陀仏を作ってくださったという、お慈悲のお話までしてくださった。
(私の頭の中で言葉をすりかえているところもありますけどね)

お話の最期に子どもらと一緒にお念仏させてもらうことがありがたかったですね。

その後は座談会。
今日は大阪で増井悟朗先生の法座があり、常連の大人の方はほとんどそちらへお参りされたよう。
遠く関東や北陸からお参りされる方々は、高山の増井信先生の法座に行かれたのかな。
結局、私とOさんの二人だけ。

それが逆に良かったですね。
いやぁ、私より若い女性と二人きりで法座というのは、なかなか緊張するものもあるのですが、家族ぐるみでもう数年お付き合いのある方ですので、そこは大丈夫。

2時間ほど、じっくり聞かせてもらえたし、法にかかわるところはいくらか思ったことを話させてもらったりね。

で、感じることが、まずはゆっくり時間をかけて、今胸にあることを聞かせてもらえたら、そのお気持ちに応じて、私の中の「今の思い」をゆっくりお伝えすることが出来るなということ。
これは昨年の真宗カウンセリング・ワーク・ショップでも感じたことだけれど、短い座談の時間で多くの方と関わり合いすることの限界を、少ない人数でじっくりと時間を持てれば変えていくことができるんだなぁと。
もちろん、ご法話をいただいて多くの方と同じ話題を共有する大事さもあります。
その形でしか生まれない味わいもありますしね。

ただ、目の前にいる一人の方にじっくり寄り添うことが出来れば、こちらがあせって動くこともなく、ひたすらご本人の気づきのところで、相手の方の成長を待てるし、信じることも出来る。
まぁ、だれでもかれでもというわけには行きませんが。

うん、カウンセリングというものがあり、また真宗というものがあり、その両方を我が身で体感させてもらえたことから生まれる、「法座の在り方」というものに浸れた感じがします。

真宗カウンセリング・ワークショップや、月例会での学びや体感を、相手に向けることで自分自身で深めていくという時間でしたね。

表に現れる”個”と”個”が、水面下で”法”でつながっている感覚。
真宗カウンセリングならではの醍醐味ですね。