コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

日曜礼拝 5月 はなまつり

2009-05-17 23:47:38 | 真宗

日曜礼拝、今月は花祭りです。

花御堂のお飾りもあり、いつものお勤めとは違って「献花・献灯・献香・献供」から始まり、「散華」を経てからお勤めがありました。
それぞれを担当するのは子どもたち。
すべてを理解していなくても「厳」な雰囲気が伝わるんでしょう、いつもは走り回っている私の息子らも、ゆっくりとしっかりと担当をこなしていました。

ご法話はS先生。
お釈迦様が生まれた時代の背景、どういう境遇だったか、そしてどうされたのか…
最近、インドへ旅行されたS先生ですから、カビラ城のお話ひとつでも、実際に感じてこられたことをまじえてくださいます。

子どもらにはお釈迦様という存在に興味があったかもしれませんが、私にはやはり「すべてを捨てて求めた真実と、それが後につながるように願わずに居れなかった」というお心に思いが行きます。
もったいないことです。

ご法話のあとは座談会。
子どもたちは子どもたちでいくつかの学年ごとに別れ、大人は大人で行います。
今回は新しく参加してくださった方が数名。
座談は他の法座で体験されているようですが、日曜礼拝で会うのは(私自身も)初めての方々。

これは余談ですが、最近新しくご縁がある方は別の会で求めてこられて知識はしっかり詰め込んで”意気込んで”こられる方が多かった気がします。
しかし、このたびご縁のあった方々は、まったく違った来歴。
私としては、久々に心躍った感じがあります。
というのも、そういう来歴の方々と言葉交わす(時には過激に)ことを通じて、どんどん私が華光で聞かせてもらっているものを確認していった歴史があります。
同じ喜びの方々と、ほんわかと分かち合っていくのも良いのですが、自分の思いとすぐに通じ合わないところでやり取りする中で、聞かせてもらうってのも大事だと思ってますから。

もっとも、そういう時のやりとりも、私自身20年前とは変わってきています。
結構ゆっくりとすすめていこうとする傾向がありますね。
しかし、そこは華光の法座。
いきなり核心のところで切り込んでいく方もいれば、まずはご縁が整ってきていることを大事にされる方もいます。
その上で、最後は先生がしっかりと要を押さえてくださるのですから、贅沢な時間です。
残念ながら、時間が足りずに、それぞれの方がどう受け止めて帰られたのかは聞けませんでしたが、ちゃんとそういうことを後で聞いてあげる人もいますから、私は安心です。
(というか、中途半端に関わっていくのもなんですので)

と、外側の話ばかりではもったいないので、私の思いのところで。

法座ということでいろんな人が集まって来られます。
そこには「信心」を求める方もいれば、「立場」で仏法に触れていく方もいます。
私のように、人の縁で法に出会う者もいれば、私の子どものように親子の縁で、生まれたときから逃げられない者もいます。
でも、どういう来歴があろうと、それは今ここに至るまでの「ご縁・お育て」なんですね。
今まで苦労してきたことが報われるのが目的でもなければ、立場上立派な伝道者になるのが目的でもない。
私の後生がどうなるかを、心配し、願わずに居れなかった仏に出会わせてもらうことで、この私が仏にならせていただくのが法。

それぞれの人が、その唯一の目的に最短距離に導いてもらうために、ある人は恋人が縁になり、ある人は家族が縁になり、あるひとは立場が縁になる。
その縁を喜ぶのではなく、そこまでご縁をつけてもらった事でさえも、振り捨てて裸になって求めていくしかない。

おそらく、お釈迦様は裕福な王子として生まれなければ、迷いの住人だという目覚めがなかったんでしょう。
私が同じ立場なら、欲におぼれて、迷っていることも知らずに終わるでしょう。

お釈迦様は、そういう自分から一歩踏み出していかれた。
裸で生まれて、裸で死んでいく、自分自身の問題として。

すべてを振り捨てたというお釈迦様のお話を聞かせていただいた花祭りで、座談に集った方々を通して、逸話なんかじゃない、私の出来事を見せてもらった時間でした。

下は、先日、娘の体育祭を見に行った学校の掲示板の言葉です。

お釈迦様への思いと、先生を通じての思いと、仲間との出会いを通じて、この言葉が一層深く味わえます。