コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

ちょっと回顧 (でも今の話でもある)

2009-05-24 00:01:58 | 真宗
今から十数年前、今のようにブログやSNSというものはなく、ネット上のコミュニケーションは主に掲示板(BBS)だった。
自分のホームページで何らかの情報提供をしている人が、その情報に興味を同じくする人たちとクロストークでコミュニケーションしていく場だった。

不思議なもので、顔も知らない人たちと、真剣に言葉を交わし、時には戦い、時には伝わらないことに嘆き、しかしそうやって主張をすることで「自分の大事にしているもの」がハッキリしてくる。
「大事なもの」だからこそ、わかってもらえないことに苦しみ、時にはおしつけ、言い負かすことに力を注いでいたりした。
わたしが関わりを持っていたのは、主に浄土真宗の若い僧侶の方々で、今はほとんど継職して住職になられていることだろう。

そうやって交わしたことで、おおきな溝を感じたことがある。
同じ浄土真宗のことを語り合っていても、原点が違うのだ。

これはすべての人に当てはまるということではないだろうが、少なくとも当時感じていたことである。
彼らは「寺」に生まれ、「聞信徒」に育てられ、やがて「僧侶」として「伝道」することを意識して、仏法に関わってきたんだと思う。
なので、仏法を聴くというのは、「僧侶」として「聞信徒」の期待に応えることになっていた。
それが間違いだとは言わないが、それが第一の目的だとしたら、ちょっとわたしには容認できない。
仏法・仏願というのは、「僧侶」や「聞信徒」という立場のためのものではなく、すべての「迷えるもの」が「今・ここの・わたし」として聞かせていただくものである。
人のために勉強するものでなければ、立場に対して役立てるためのものじゃない。

そういうことを何度も話していたが、関わっていた方々はまだ意識があるほうで、もっと多くの人は「職業として」の僧侶をいかに無難にこなすかを第一義にしている。
「法話」はただの商売道具なのだから、おばさま方を面白おかしく笑わせていい気分にさせる「綾小路某」と変わりはしない。
また、意識のある人たちにしても、「教団に問題があるから浄土真宗の一大事だ」と組織の改善にいそしまれる。
そうやって教団が親鸞聖人の意思に沿った正しい方向に向けば、多くの方に真実が届けられるんだと。
しかし、そうやって教団が整備された後に正しく法を聴く人のことを心配している間に、あなた自身はどうなのかと。

「仏法のために働いた」達成感は出来るかもしれないが、あるいは多くの人が法にふれる「ご縁は作れた」かもしれないが、仏願の生起本末は「お前一人が迷っているを見捨てることが出来ず、必ず救い摂めるぞ」との願いであるならば、僧侶であろうがなんであろうが、ひとりの迷いの世界の住人として、なにをさしおいても「わが一大事の後生」をはっきりさせる以外に何があるのか。

人によって、仏法との出会い方は様々で、それこそ寺に生まれて赤ん坊の頃から縁のある人もいるし、一生懸命伝道してくださる師にであうことで縁の出来る人もいるだろう。
そういう出逢いがあるまでには、意識を持って浄土真宗の御法をなんとか伝えようと骨を折ってくださった先達が必要だったし、そのご恩には頭を下げるしかない。
しかし、そこまでご縁をいただいたならば、他人をどうこう考えるより、まずこの”私”がすぐに聞かせていただくしかない。

「どう聞いたら良いのか」とか「聞くだけとはどういうこと」だとか、そんな私の側の思案に煩わされず、もう思案も願も行も先に済まして完成された「南無阿弥陀仏」に一歩踏み出す。

こうして述懐してみると、昔も今も考えていることはまったく変わっていないことに驚く。
ただ、こういう場面での関わり方は、真宗カウンセリングとの出会いによって、変わっている部分もあるだろう。

それ以降も、多くの僧侶の方との出会いも会った。
僧侶という職をしながら、法座においては一求道者としてその姿をお示しくださる方もおられる。
最初は「聞信徒のため」と悩み続け、一歩出て自身の聴聞を深めていかれた方もおられる。
先に法に触れ、そこから僧侶の道を歩みだした方もおられる。
みな、ただこの世での姿が「僧侶」というだけ。
むしろその立場に苦しみ、余計な重荷を背負われている。
だからこそ、そういう方が師となって法をお取次ぎしてくださるときは、本物の迫力がある。

寺に生まれたというのは、そうでもしなければ「法」と出会わなかったという「因縁」があっただけだろう。
そういう縁起を超えて、自身の因果の問題として…

今年から、各地でカウンセリングのワークショップをお手伝いすることになった。
これを機会に、有縁の方々に案内してみたいなという気持ちが湧き上がっている。
今ならまだ間に合うかもしれないから。