コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

円座禅 -2 セッションについて

2009-09-14 23:55:24 | コミュニケーションワーク

先日の円座談で感じたことです。

最初に概要と共に、ルールをお話くださいます。
ルール1:円座談の場で語られたことは他の場で話さない。
ルール2:どんな感じもみんなで尊重。正直でいられるために。

ここまでの守秘・尊重は他のワークなどでも大事にされています。
そしてもうひとつ

ルール3:非暴力

これも当然他のワークで大事にされています、というか、絶対的な条件です。
しかし、この非暴力に関して、私は身体的暴力(これは絶対にだめですね)と、もうひとつは言葉の暴力ということで、「相手が困ること」という漠然な認識をしていました。
そこを円座談の土江先生はもっと明確な言葉で表してくださっています。
「プロセスを妨げない」
相手を攻撃する悪口は当然として、語ることに対してそれを妨げることを「暴力」とされています。
プロセスの中には、ひとつの”感じ”から広がっていく・成長していく流れというものが含まれます。
語り手がそのようなプロセスの中にいるときに、それを中断させるような行為、たとえば質問であったり、語り手が身構えるような意見であったり、そういうことも「暴力」であり、認められないということです。

確かにミニカウンセリングなどで大事にしていることにそういうことを含んでいます。
その場合はクライエントが語るあいだ、カウンセラーは質問したりすることは無く、”寄り添っていく”ことに終始します。
なれないときには、話題を促進させるつもりで質問したり聞き返したりしてしまいますが、それは「尊重」の精神が身につくにつけ、避けるべきことだと気付いていきます。
そのことを最初からルールとして「暴力」ということを定義する。
最初の気付きでしたね。


次にセッションに入っていくのですが、最初に数分間静かに時を過ごし(時には思考のテーマをもらいます)自分の中に現れてくる”感じ”を受け止めていきます。
昔のわたしは、こういう時間に「一生懸命意識をまとめないといけない」ということをしていました。
その後、様々なカウンセリングやワークの体験、そしてなによりも仏法を通じての「いま・ここ・わたし」ということを通じて、意識が乱れれば乱れるまま、新しい思いが浮き上がってくれば浮き上がるまま、「この後なにを語ろう」ということに固執せず…とはいえ、結構ここに固執する私が知るのですが、固執しているときは「固執しない」ということに固執しないで、無理せずそのまま「この後何を語ろう」という気持ちに任せたりします。
なんか禅問答みたいな言葉になっていますが、「何が沸きがってこようが、そのまま」という境地です。

区切られた静かな時間を終えると、グループで語る時間になります。
参加者が輪になり、その真ん中に「シャべラー」というアイテムがおかれます。
語りたい人は、そのアイテムを手にして語り始めます。
そのときグループの中にひとり「サポーター」(聞き手)をハッキリさせます。
「サポーター」は単なる聞き手(リスナー)ではなく、語り手が最後まで感じていることを語り終える手助け(サポート)をするという役目です。

じつはこの「サポート」というところが大事なところでした。

あまり比べることはしたくないのですが、いままでミニカウンセリングで大事にしてきたところに、「相手の尊重・成長を信じる」という事があります。
ここはわたしの未熟さもあるかもしれませんが、できるだけカウンセラーが”動かない”ことを大事にしています。
レスやオウム返しはしますが、それはクライエントが話することの促進であり、一段落があるまではクライエントが沈黙をしてもそれを大事にします。

今回、サポートということの中には「伝え返し」(レスと同様)だけでなく、「コメント」(カウンセラーの思い)さらには「洞察」を伝えるという事があります。
この「洞察」のところが微妙で、語り手が到達しなかった思いに対し「こういうことをおっしゃりたかったんじゃないですか」という関わりも出てきます。
この部分を軽々しく想像で動いてしまうと、「プロセスの妨げ」になり兼ねないなということを感じました。

しかし実際は、その関わりが間違っていても、語り手が「いや、そうじゃなくて…」と、真実に向かって促進される場合もありますから、大事なことにつながりますね。

まぁ、簡単に動くのではなく、それこそ”洞察力”を磨いて、身体的メッセージや、言葉の奥にあるメッセージを丁寧に拾い上げることが大事なんだと思います。

こうやってシャべラーを手にした「語り手」とサポーターがハッキリすることで、カウンセリングの形が出きあがります。
ただ、聞き手以外の周りの参加者もいっしょに話を聞くというところがカウンセリングとは違います。
じゃあエンカウターかというと、いつでも自由に関わっていく事が無いですから、それとも違います。

このブログではフォーカシングという言葉を使っていませんが、語り手がフォーカシングしたところを大事にしていくというところが「フォーカシング指向エンカウター」と命名されているところでしょうね。

ほんとうはこの「フォーカシング」というところも書けばいいのかもしれませんが、参加した方の話によると「フォーカシング」にもいろいろあるらしく、今回のフォーカシングは「他と少し違う」ということも聞いていますので、勉強していない私が説明できるものではないと…なので”感じ”という表現になってしまいます。

うーん、まだエネルギーの余韻が体内を渦巻いているせいか、ひとつのセッションの外側だけでこれだけの話になってしまいました。

説明を重ねるよりも、感想で今日は閉めておきたいと思います。

ミニカン・エンカウンターで自然と身についた”関わり方”を基準にするので、動きづらい感じもありましたが、この”場”に身を任せることで二日目の午後には私もサポーター体験をさせていただきました。
無理に”洞察”を意識することはありませんでしたが、普段通りの「聞き方」で、「語り手」さんとの関わりがもてたように思います。
そこには「語り手」さんの”開いていく”スキルがあったからだとは思いますが、言い切るお手伝いが出来たのならば…ちょっとうぬぼれてもいいですかね(笑)
今まで教えていただき、身につけてきた「聞き方」「寄り添い方」が、少なくとも間違ってはいないのならば、それは嬉しいことですね。


他のワークの事もいろいろ書きたい事がありますので、また明日以降に続けます。