コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

「いま・ここ」ということを考える

2009-09-29 00:18:33 | 日常雑感


「いま・ここ・わたし」ということの大事さは、仏法の面でもカウンセリングの面でも重要なこととして何度も話してきましたが、ここを感覚的にしっかり受け止めるってのはなかなか難しいですね。
「言ってることはわかるけど…」という方はまだ「理解しよう」とされているでしょうし、「よくわかります」という方でも理解でとどまっている事が多いんじゃないでしょうか。

最近のご縁の中で、このこと(理解で留まる)をわかりやすくあらわしていただいた場面がありました。

その方とはいろんな場面でごいっしょさせていただき、お話させていただいています。
最近のことをお聞きしているときに
「以前、『いま・ここ』が大事だと教えていただき、それを教えていただいたことがうれしかったです」

「いま・ここ」が大事だということをしっかり聞いてくださり、そのことに気付いた事がその方には大きな体験だったんですね。

しかし、このことはすでに「過去」のできごとであり、「気付いた体験」を大事にして、「気付いた内容」を理解しているだけですね。
「気付いた」ことだけが大事ならもったいないですよね。

このことを話している「いま・ここ」はもう違う気持ちが流れていますし、そのことを気付いた「歴史」を経てある「いま・ここ」のわたしが、なにを感じているのか…

この方は、そういう話をしたときに「はっ」と何かに気付かれました。
その「はっ」がまぎれも無く、そのときの「いま・ここ」で動いているものですよね。


この「いま・ここ」の私でいられるというのは、実はなかなか難しいんです。
「いまの自分でいいんだろうか?」という不安な気持ち…これは誰しも持っていると思います。
そうすると「いま・ここ」の自分と向き合うとき、その瞬間が「否定」の気持ちで受け止めてしまいます。

ですから、カウンセリングでの「受容」というのはすごく大事な条件になってきます。
「どんなあなたでいても大丈夫ですよ」と受け止める関係が伝わってはじめて「いま・ここ」のわたしに、素っ裸になれるんですね。

このことは、仏法の面で見るとさらに「仏の目で見透かされている」ということになります。
なにを隠す必要も無い。
「こうありたいわたし」というものを持ったまま、「そうじゃないわたし」でいること…「それがお目当てなんだよ」という無条件の受容。

そう考えていくと、がんばって「いま・ここ」になっていくことではないですね。
カウンセリングの「正しい関係」が出来上がれば、「いま・ここ」のわたしになれます。
仏の願いの前にたたされれば「いま・ここ」のわたしになれます。

まずは「いま・ここ」をどう受け止めているかゆっくり自分に問うてみて、そのときに浮かび上がる気持ちをキャッチしてみてください。
どんな気持ちが出てきても大丈夫です。