今日は日曜礼拝、この時期は運動会や文化祭など学校イベントも多いせいか、あるいは連休のあとで家族でのんびりしているのか、子どもが少なくちょっと残念。
また、お隣の大阪で支部法座があるため、大人の参加も少なめ。
でも、少なければ少ないでお座はしっかりと成立するあたりが、こちらの思いどうこうじゃないところですね。
ご法話は、「小さい虫・生き物の名前を挙げてみよう」という先生の問いかけに、子どもら(大人も)が黒板一杯になるまで名前を挙げていき、次に「じゃあ、この中に殺した事があるもの」というお話。
無邪気な子どもらは「ありを踏み潰した」だとか「蚊をたたいた」など自慢げに…
大人も負けずに…
ついで、そういう殺生の罪で私はどこに行くの?というお話から八大地獄の説明まで。
あとの分級座談で、子どもらがどんな反応をしていたかも気になるところですが、大人は大人で「気持ち悪い感じ」と「それでも意に介さない私」というところで、時間があっとすぎるほど盛り上がったりします。
表面だけ見ると「罪悪自慢」になるのですが、それぞれの人が「我が身で作っている事実」というところで味わっていきます。
こりゃあ堕ちるしかない…
脅しでも卑下でもなく、事実を事実として。
今日の顔ぶれは「ベテラン」揃いだった事もあって、話は「南無阿弥陀仏をも称えない身」というところまで深まりますし、「合理化か溝さらえか」というブログでの問いかけに対する「えっ?私はどうだろう?」の表明まで。
ありがたい時間でした。
私自身のところで見ていくと、そのときの気持ちのありようで「南無阿弥陀仏」が近かったり遠かったりするのですが、そんな当てにならない自分自身を通してこそ「南無阿弥陀仏」がハッキリしてきたりします。
(先日の書き込みと言ってる事が矛盾しているようにも聞こえますね、これは)
違う言い方をすれば、そういうあやふやな奴が、法座での出会いを通して”引き戻され”、”素っ裸”な本来の姿にまで”剥がされ”ます。
だからこそ、また法座に引き寄せられたり、というかそうなるようにお手回しが用意されていたりします。
来週は東京にお邪魔します。
本来、中心で動くはずの方のご都合で、ピンチヒッターという形ですが、そういうご縁が整ってくるんですね。
「公開講演会」という形で、一日目の午後はどなたでも参加していただき、増井信先生のお話を聞いていただけます。
関東近郊の方、ぜひお会いしましょう。