昨日は華光会京都支部の法座。
毎年12月の23日に行われる家庭法座。
ご法話の内容は、ご講師の「かりもん」師が詳細に書いてくださっているので割愛。
で、私のブログはお味わい中心。
「現世利益のご和讃」を中心にお話くださったが、私が求める利益ってのは自分の都合での「ああなりたい、こうなりたい」というものばかり。
それがうまくいかないときは、その原因を外に求め、自分は傷つかないようにしながら、いいとこ取りをする。
しかしその実、わが身に起こってくることの原因は紛れもなく自分自身にあり、自分の作り続けてきた「業」を果たしていくしかない。
わかりやすいところでいけば、「夫婦は業の果し合い」などというが、そういう相手と連れ添ったのも誰のせいでもない自分の「業」だし、なにかでけんかしたとしても相手だけが悪いことなどではなく、自分の作ってきた「業」が、夫婦のけんかという形で現れてきただけだ。
そういう、自分によいことがあるようにと求める利益じゃなく、私の預かりしらないところに南無阿弥陀仏の利益は働いている。
いわゆる即効薬的なものではないので、なかなかありがたみを感じないが、こうして和讃を通じて聞かせていただくとその利益の元にある「南無阿弥陀仏」の功徳がはっきりとしてくる。
利益を喜ぶのではなく、その利益もこめられた「南無阿弥陀仏」に出会わせていただくところが喜べる。
座談やあとの懇親会などでいろんな方と讃談させてもらったが、やはり積み重ねる聞き方や効果を求める聞き方をしていると、ご縁のところでうんぬんしてしまいがちだが、すでにわが身に起こっている南無阿弥陀仏の働きを、自分で判断しようとするのじゃないなと。
形としては人の促されたからするお念仏だとか、なんとなくするお念仏だったりするのかもしれないが、よくよく考えてみると、(たとえそこにこちらの欲が混じっているとしても)この私がこの口で「南無阿弥陀仏」と称えるわけがないのである。
自分では自分の意思でしているように思っているけれど、先に「お働き」があって、それがこの身で証明されているだけ。
私が求めている利益とは違うかもしれないが、私が求めても決して手に出来ない利益がこめられている。
いや、次元が違いすぎて、そんな利益を求める気さえないような大きな利益。
そして、その種が…一方では「救う気にさせずにおれない」ほどのどうしようもない私の種、もう一方では「救うための手立てが具足している願行」の種。
座談の最後に、お念仏を手渡していく時間を持っていただいた。
次々手渡され、響き渡るお念仏。
そのお念仏の前にたたされたとき、人の心配や、人に煩わされることなどの障りから放たれた感覚になった。
「ひとり」
そんな感覚。
多くの人や諸仏に囲まれているが、後生の一大事はわたし「ひとり」の問題だと。