いよいよ年末って感じになってきました。
まだ記事にしてないことがいくつか積み残しになっているのですが…
無理に掘り起こして書くよりも、書きたいことを書きたいときにと思っています。
書き損ねている話題も、そのとき(書きたい気持ちが強くなったとき)に自然に書けば良いかなと。
先日の京都支部法座に参加したとき、ちょっとした気持ちの変化を感じていました。
おそらく周りの方にはどうということのない変化でしょうし、誰も感じなかったとも思います。
でも、自分自身で振り返ってみると、思わぬ変化だったりします。
ここ数年、法座の後の懇親会にあまり出たくないという気持ちがありました。
(ワークショップや地方の法座の分かち合いは大好きですが)
その思いの底にあるものは、いろいろ自己分析してある程度認識してますが、いくつかの要因が複雑に絡まっています。
その中のひとつに(というか基本的に全部そうなんですが)人間関係の問題があります。
法座でご一緒する分には問題ないんですが、雑談的になるとしんどくなる関係があります。
いわゆるゴシップ的なものが好きな方とのやりとりで、「だれそれはああだ、だれそれはこうだ」という具合に他人の話題…多くは否定的な言葉で盛り上がる。
いや、私がそういうことを一切しないかというと、私もやっているんだろうとは思います。
そういう話題でも、まだ自分の思いや考えを聞いてほしいというのならわかりますが、人づてに聞いた話を「どう思う?」などと問われても、その話題の対象も伝えてきた人もここには居ないのですから、その情報が正確かどうかわかりません。
ちょうど話題にしようとしていたことのひとつに、先日講義を聴きに行った友久久雄先生の「仏教とカウンセリング」という公開講義があったのですが、その中である相談を受けた時に、「一方の言い分を聞いただけで判断せず、双方の主張を聞いてはじめて判断する」ということがありました。
情報は人を通して語られると、その人の意思が混じって正確じゃなくなると。
自分の子どもが「お姉ちゃんにたたかれた」と訴えてきたからといって、すぐにお姉ちゃんを怒るのでなく、お姉ちゃんの言い分も聞く。
そこにはたたく原因があるでしょうから。(もちろん、”たたく”という手段は許しません)
と、話がそれてきましたが、そういう場面に居ることがしんどくなってきた時期があり、避けるようにしていました。
今回の法座でも終わったらすぐに帰ろうという気持ちが強かったのですが、会場に向かう道中で少し今までと気持ちが違うことに気づきました。
先に決めてしまわずに、法座が終わった時点の気持ちに従おう。
もしその時点でいやだったら帰れば良いし、その後でもいやになった時点で離れれば良いと。
これで結構楽な気分になりました。
そして法座がすすんだときに、参加していたある方のお話を聞いて「もっとこの人の話を聞きたいな」という気持ちに気づきました。
もし、「すぐに帰ろう」と決めていたら、そういう気持ちも起こらなかったでしょう。
実際に少し飲みながらその方のお話、今の心境をお聞きする時間はとても楽しいものでした。
その後、別の方ともいろいろお話しする時間も持てましたし。
ここ数年、私の中に「触れられたくない、触れたくない」ものがどっかりと居座っています。
それを避けるためには、「そこにいて話題を避ける」よりも「そこにいない」を選択しています。
もし巻き込まれたくない話題がそこでなされていたとしても、いなければ聞くことはないのですから。
実際は「なにか言われているんじゃないだろうか」とモヤモヤしてるんですけどね。
でも、直面したくないという方の気持ちに正直になっています。
そこに対して、ちょっとだけやわらかくなった…そんな気がします。
他人にはどうということはないのでしょうが、私自身はそのことをそおっと受け止めて大事にしてみます。
まぁ、次の機会になるとどうなるかわかりませんが。
その時々の「私はどうしたい?」を大事にしようと。