コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

伝道研究会 6月

2010-06-05 22:41:05 | 真宗
水曜日は伝道研究会でした。
ここ数年、途切れ途切れの参加で、テキストの連続性が崩れたり、参加してない法座の話題が中心になったり。
また私自身の予定の関係で、真宗カウンセリングの研修や月例会などと日が連続してるときなど画でにくかったり。
そんな理由で、少し距離が開いていた感じがありました。

しかし、今年度から内容も開催方法も一新。

これを機会に、モチベーションを高めていこうと思います。
というか、モチベーションを高めないと法に向かわないのもどうかと思いますが…。


参加形態は、華光会の同人なら誰でもOK。
もっとも平日夜の開催ですから、遠方の方は難しいかもしれません。
多くの希望があれば、京都に限らず臨地での伝道研究会ってのも年に数回ならできるかもしれませんが。

テキストは、増井悟朗師が数年前に行われた研修会のものをみなで輪読することに。
「真宗の基礎」として数年かけて行われたものの第1編「教義編」

その詳細はかりもん氏のブログに記載されているので(例によって)省略。

プリントのほんの数行の部分を読んで、各自で味わったことや質問をしただけであっという間に2時間くらい。

今、わたしが浄土真宗を通じて知らされることのすべてが、法蔵比丘のたてた誓願から始まっているということ。
それまでにも多くの仏が「衆生を教化する」との誓いを立てそれを実行し成仏させてきたというのに、それが「無量の衆生」であってもすべてを成仏させることはなかった。
「無量」とは計り知れないほど広大な数ではあるけれど、この私の知恵で計り知れないというだけで”限り”はある。
つまり、多くの仏が済度してきた中にもれていた者がいるのだ。
しかし、法蔵比丘は「一切衆生を済度する」と誓われた。
「一切」ということは”もれなく”という事。
他のどんな諸仏もなしえなかった「この私を救う」ということを。
そう、この私はずっともれていたから迷い続けている。

こうして、起こされた誓いを元に、他の諸仏が作った国をつぶさに見て回り、どうすれば「この私」を済度することができるか思案し、四十八の願として立てられたというのだ。

仏の国の仏同士の話なのだが、その根源は「救われようのなかったこの私を救うため」の話だ。
「無量の衆生」からもれて「一切衆生」とくくらなければいけなかったものが何人いるかは知らない。
しかし、少なくともここに一人いる。
周りにもいるらしい「あの人やこの人」が先だろうと後だろうと、そんなものどうでもいい。
「この私」がもれている限り、「一切衆生」にはならないのだ。



テキストはちょっと難しいかもしれないが(仏教用語もいっぱいだし)とても大事なことを、その時々のメンバーが自由に発言して進めていくのが伝道研究会。
参加できそうな方はぜひ。

次回は7月7日(水)19時半からです。