コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

京都支部法座 6月

2010-06-29 11:12:23 | 真宗
日曜日は華光会館での支部法座。
講師に増井悟朗先生をお迎えしての、法話と座談会。
遠くは四国からお参りの方や、初めてお目にかかる方など30名を越す参加者。

ご法話は「一切皆空」をテーマに、そこにつながる「真空妙有」をめぐって、「空」と「有」の関わりを。
わたしとしては流れの中での「称名」についてのお話が、最近の関心ごとにリンクしてありがたかった。

「称えもせずにぐずぐず言うな」
「ただ称えてるだけではあかん」
「称名は報恩、正因は信心」

時により、人により、「称える」ということについて真逆とも言える言葉に出会う。
もちろん、その言葉にいたるまでの流れや、相手の居所によるのだが。

先週の真宗カウンセリング・ワークショップでは、「称名念仏」する時間が設けられた。
あるときは各自自由に、あるときはリレー形式で順番に。
最初は「お念仏しましょう」との呼びかけに応えるものだったかもしれないが、いつしか「自分が称えているのじゃない」という感覚になり、やがてそんな「誰が」なんてことは意味がなくなり、そこには「南無阿弥陀仏」だけになってくる。

称え心を問題にするのは、称えることに価値を持たせたり、当てにしたりする心を問題にするため。
そういう「わたしの願い」はすべて「空」に帰してしまう。
どういう「称え心」が正解か求めるものではない。
なのでそこにぐずぐずこだわるのならば「称えもせずにぐずぐず言うな」という声に従い、まずは称えてみる。

じゃあ、と恐る恐る称えてみる。
何か変化が起こるのを待つ。
自分の身にわかる「功徳」があるはずだと。
お念仏の中身を問題にせず、自分の手ごたえを求める。
なので「ただ称えてるだけではあかん」と言われる。
でも、「じゃあどうすれば…」と困惑してしまう。

それまで一生懸命聴聞してきて「信心正因称名報恩」なんて言葉も知っている。
自分に信心がないのにお念仏しても意味がないと決め付ける。
信心をいただいてからの報謝の念仏でないと駄目だから、と。
これも自分で順番を決め、そういう自分の意に沿うか沿わんかで計る。

観るべきものはお念仏の功徳。
その「南無」のなかに長いご思惟やご修行がこもっている。
「阿弥陀仏」の名の中に、それが達せられた功徳がこもっている。

わたしが称えるのではなく、そのできあがった「南無阿弥陀仏」がわが身を通して現れてくるのに任す。
「それだけでいいんだろうか」
「わたしが変わらんといかんのじゃないだろうか」
そういう思いがわきあがってくる。
それがお念仏の功徳を疑う心。


誰にも邪魔されずに、また回りのお念仏の声に誘われるように、お念仏を称えるに任せる時間。
それは表から見ればただのワークなのかもしれないが、そこから飛び出してくる、周りにあふれる「お念仏」のなかにエネルギーがあふれている。

嫌いだと言いながらも、これでどうなると思いながらも、この口から飛び出してくるのは「真実」



こちらの求めるものは「一切が皆、空」であるのに、その「空」の身に「妙なる有」が用意されている。

ご法話の話と、わたしの思いが混じっているので、これがご法話の内容だと混同されないようにお願いしたいが、私がご法話に刺激されて、今キーボードに向かう刹那に味あわさせてもらっていることがこれ。


久々の参加者や、新しい出会いも楽しいが、そういう縁のところで喜ぶ身に、そういう縁を通して届く真を喜ばせてもらえる。
周りの人との関わりも、また「空」に帰していくのだから。

(でも、人との関わりの中でしか活きていないんだよなぁ…さびしがりやだから)