コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

第7回 真宗カウンセリング・ワークショップ

2010-06-22 06:42:37 | コミュニケーションワーク

土曜から日曜にかけて、真宗カウンセリング・ワークショップを開催しました。
当初は3日間の予定でしたが、参加希望者が少なく・・・
どうも金曜日は仕事があるのと、参加資格に「三日間参加の方」とあるのがネックな様です。
締め切りぎりぎりまで3日間の予定で勧誘しましたが、様子見もかねて「二日間にするかも」とアナウンスしたところ「それなら検討します」との声がちらほら。
それでも3名くらいなので微妙でしたが、「少ない人数でも開催したいですね」との先生の一言もあり二日間で開催決定。

その後も迷っていた方などから申し込みをいただき、最終的には6名、先生と私を入れて8名でのワークショップになりました。


京都は梅雨の真っ只中、しかも前夜から「九州からの大雨が本州全土に移動し…」などと言われていたので心配していましたが、二日間とも雨には影響されず(ワーク中に大雨になることもありましたが、食事に出かけるときにはやんでいます)蒸し暑いのは京都では仕方ないのですが、会場の部屋には空調もあるので快適です。

興正寺の中にある婦人会館が会場。
二つの部屋を「どちらかお使いください」と鍵をもらって、和室と洋室(テーブル席)が隣接した部屋を選択(ちょっとだけ部屋代が高いんですけどね)
ちょうど8人がけのテーブルが、絶妙の距離感を作っていい雰囲気。
休憩時は和室でごろごろできるし。


セッションは全部で5回。
数分間のお念仏(時にはリレー念仏)と黙想の時間を各セッションの最初と終わりに。
それぞれの今の味わいを分かち合った後、自由に話し聞く時間。

で、中身は…と、これはここでは書けないんですが。

仏の願いを各自の存在の根底に置いての、そこに居る人を大事にする関わり

宗教観も様々、カウンセリング観も様々。
けれど、ひとつになっている感覚をい味わいました。


仏法を求めていくと、その廃立を厳しく見ていくことははずすことはできません。
しかしその一方で、それを受け取る人間はコロコロ変わる感情を刺激されると、真仮が混在し見極めることができなくなります。
ましてや人の口から法が語られるとき、その人の態度や感情に、こちらの人の部分が反応して閉じたり守ったり、あるいは傷つき反発し…おたがい人だから仕方ないんですけどね。

相手からの「それじゃ駄目」という否定を浴びたとき、「今のままのわたしで居られない」という思いはすべてを閉ざすものにつながります。

でもゆっくり「今のわたしでいてもいい」と受け止めてもらうところからはじめることで、外からではなく今まで経験してきたところに居る仏願に出会っていけると思います。
そう、すでに働きがあり、働きを経験している。
それを押し付けではなく、自らの「気づき」で味わっていける。

相手のことを語るのではなく、その相手が居ることで響く私のところを語ることで、それがまた相手に響いて気づきになっていく。
響きあい、育ちあう人間関係の中で、それが法に願いに包まれていることを味わえる。
いや、法に包まれているから、安心して響きあい育ちあうことができる。


生活の話題の中にも法が存在し、法の話の中で人同士の関わりを感じる。
「真宗」と「カウンセリング」
私においてはこの二つは切っても切り離せないものとして。

時間・顔ぶれを含めた、この「場」で出来上がった関係の中で、「私が私で居られる」二日間でした。


あまりに気持ちよすぎて、終わってからの飲み会でかなり語ってしまったことが気にはなりますが…(笑)
そのことはもしかしたら言葉にして残すかもしれないけど、このままスルーする確立が高いかな。
しかも今晩ミニカンがあるから、今のわたしから何が飛び出すか、ちょっと怖いかも。

金曜日には「聞き方・伝え方」の学習会もあることだし、まだまだ「私が私で居られる」ことができそうです。