予想だにしない震災により、多くの命が失われた。
そのことについて、何をどう言葉にすればよいか・・・
いろいろ巡る思いは多々ある。
そんな中、昨日も祖母の七日ごとの逮夜を行ってきた。
私の中では、祖母の死も震災での死も、その経緯は違えど”死”という意味では同じ。
ここ1ヶ月の間だけでも、知人が病死したり自殺したりもしている。
それらも同じ”死”だ。
その誰もが望んで死んでいったわけじゃない。
たしかに一瞬で何千の命が奪われるのは驚くべきことだし、悲しいことだ。
でも、同じ日に別の場所でひっそり”死”をむかえた命もある。
残された方の悲しみも、震災が原因であろうがほかの原因であろうが、その深さに差があるわけではない。
悲しいのは悲しいのだ。
そして、いくら祈りをささげようと、なんの力もない。
誰かが祈ってくれていることで、残された方の気持ちに何かの灯をともすことはあるかもしれない。
しかし、亡くなった命に何かの影響をあたえる力はない。
わたしは無力だ。
そしてひとつだけはっきりしていることはある。
どのような原因・経緯かはわからないが・・・私にも”死”はやってくる。
その”死”の前に、私は無力だ。
そんな無力なものに、願いはかかっている。
わたしに願う力はないが、超世の願いが。
他人のための祈りでもなく、心の安定のためでもなく、
無力な私自身のために・・・
南無阿弥陀仏