接的な被害のなかった関西に住んで、様々な情報や、人の声を受けるだけの日々だ。
チェーンメールに代表されるように、善意の連鎖もあれば、その善意が今すぐ必要なものに連結してない場合もある。
そういうとき、一方の考え方の人が他方を批判・非難する場面に多々遭遇する。
コミュニケーションを考えたとき、そういう風に相手の考え方を受け入れられず攻撃する声に、とても辛いものを感じる。
あるスポーツ選手が「こんなときに試合をしていていいんだろうか」とつぶやく。
もう一方では「こんなときだからこそ、選手としてできる姿(いつもどおりの姿)を見せるべきだ」とつぶやく。
この時点では個々の思いだけど、それを受けた支持者が発言者を”善”とし、相手側を”悪”として、相手の考え方を攻撃する。
どうして、どちらかだけを”善”として、それ以外を排除しようとしなければならないんだろうか。
自分の姿は晒さないで、、自分の考えを守るために言語武装するネットの世界では顕著に現れる。
また、できるだけ多くを”見方(視聴者)”につけて行こうとするマスコミにもその姿は見られる。
マスコミは対応が100%じゃない政府や業者(東電)のエラー部分を見つけては攻撃する。
さらに、そういうマスコミや政府を攻撃することで、自分は民意の代表だという”一般市民”も多く現れる。
責められた側は、責められないように別の対象(スケープゴード)を探して、非難の矛先を変えようとする。
あるいは、自分は”駄目”と閉じこもって、そんな考え方をしてしまったことを自分自身で責めだしてしまう。
大丈夫、どんな考え方を持ってもいいんだよ。
相手も責めなくていいし、自分も責めなくてもいい。
違った考え方があってもいいんだ。
念仏者としてこういう事態に遭遇したときにもいろんな考え方がある。
無常を感じました。
これでも無常と思えません。
感じた人に対して、「そんな一時の感情の変化を無常”観”と思うな」と非難する声が上がる。
思えない人に対して、「そんなことで法に出会わせていただいているんですか」と非難する声が上がる。
他人が非難しなくても、自分自身の中で「これでいいんだろうか?」と疑念がわきあがり、不安になり、困窮してしまう。
感じた人は感じた、思えなかった人は思えなかった…
それを他人が検証したり、操作したり、誘導したりする必要はない。
また、自分自身で、自分の常識の物差しで判断する必要はない。
無常なんて”感”じはしても”観”ずることはできない。
でも、縁に触れて”無常”があることを教えられる。
自分で観るのじゃなくて、観た人の言葉を聞かせてもらうことで”ある”んだと。
自分の判断では漠然とした不安であっても、そこには”ある”事を知らせる力が働いている。
ただ、そんなことはコロコロ変わる私の本性ですぐに薄れたり消えたりしてしまうだけだ。
そうなったらまた、「末通らないと」不安になって、自分の心の修復に走ってしまう。
大丈夫、わたしってやつは、そのコロコロ変わる揺れ幅の中で、色んな考え方が次々にやってくるだけだ。
「末通る」ものは、こちら側じゃなく、頂き物のほうにある。
揺れ幅の中で、どちらかの考え方になったときに、そうじゃないほうを”良し”として今を責めなくてもいいんだ。
いろんな考え方、思い方になってもそんなところに救いの条件はない。
と、まったく末通らないはちゃめちゃの書き込みになったけど、その瞬間瞬間で書きたいことが変わっちゃうのが私だから、せめて自分ではこの自分を責めないでおいてやろうと。