震災報道がいつしか原発問題や停電問題の報道に比重がかかってきた気がする。
そう、報道の中心にいる首都圏の人にとっては、迫り来るかもしれない放射能や、日々の生活に支障を起こす停電問題のほうが切実だ。
支援をするにしても自分の生活基盤が整う前提で考えるものになる。
当然、食料や備品が不足してくるならば、まず自分の分を確保してからの話になる。
こういう考え方は非難されるべきものだろうか…
今回、東北地方で被災になっている方々のために何かできることがあればと思う。
そう考えて、節電しましょうというメールを送って停電の順番が回ってきたら甘んじて受ける。
食料・医薬品が不足しているのなら、何らかの形で寄付をしたりして役に立てて欲しいと協力する。
とてもすばらしいことだと思う。
ならばこの際、もう一歩深く考えてみて欲しい。
今回の地震が来るまでは、電気が供給されないことで困る人や、食料や医薬品が不足して困っている人はいなかったのか?
なにも国内に限る事ではない、善意ということを考えるのならば、人種や国境など何の障害にならないはずだ。
目に見えるところで、自分により深く感じられるところで、そういう気分の時だけ動くことで”何かを成しえた”と満足するのならば、それは少し怖いことだと思ってる。
いや、なにもそういう気持ちを起こしたことを責めているのではない。
先にも書いたが、困っている人にほんの少しでも役に立つことが出来るのならば、とてもすばらしいことだ。
だから、これを一時的なものにするのではなく、今までは出来ていなかったかもしれないけれど、これを機会に”普通のこと”として、困っている人に思いをはせてみることが出来れば。
実際、今は東北の被災者が数が多く切実だから、その情報ばかり飛び込んでくる。
しかし、そういう情報に載らないところで、この寒さに凍えている人は東北以外にもいる。
食べるものがなくて困っている人は世界に一杯いる。
ニュージーランドで被災にあったひとがいなくなったわけでもないし、中東のデモで怪我をした人がいなくなったわけでもない。
比較の問題で、より身近に問題が起こってきたときに、そういう情報が遮断されてしまうだけだ。
仏教の教えにあわせていただいていると、「もったいない」という考え方に出会わせてもらえる。
なにも食事を取らずに他に施せということはない。
目の前に出された食事を、しっかりと残さずいただくことだけでも大切なことだ。
そこに出された食事はもともと命会ったもの。
その命を、自分が生きながらえるためにいただいているのだ。
命を奪っていることを自覚し、無駄にしないこと。
食べ物だけではない、普段から電気の節約に努め、資源を無駄にしないことは「冥加」という考え方にかなう。
震災を機会に少しでも「限りあるもの」に意識が向けられたならば、はるか昔にそのことを教えてくださっていることをも意識してみて欲しい。
その上で、一人一人が、流行で動くのではなく、流行を機縁として、できることをしていくだけでいいんだと思う。
いろんな活動がある中、縁あって知ることとなったアーチストが活動をしていると情報を得た。
まずはこのアーチストの気持ちに乗ってみようと思ったので、皆様にもご紹介。
このご時世、いろんな動きの情報がありすぎて、どれが効果的だとかどれが胡散臭いとか、かえって分からなくなってるので、身近なところからと思ってる。
もちろん、強制ではなく、皆様お一人お一人の感覚と意思でもってお考えください。