永代経での座談会や、聞かせていただいたご法話の中に、なんとなく今回のテーマのようなものがありました。
もちろん、法の話の取次ぎですから、どこか一部分を取り出して語られていくものではありません。
あえて言えば、テーマは「南無阿弥陀仏」でしかありませんから。
そんな中でも、座談である方に話していたことと、最終日に先生から聞かせていただいたご法話が見事に一致しており、私の中のテーマ的になっていたように思えるのです。
(もちろん、同じ話でも先生がされるご法話は見事にまとまっていて、私のように雰囲気で語られるものではないんですけどね)
よく座談の席で
「お念仏を称えろと言うのなら称えますよ。でもなにも変わらないじゃないですか」
という言葉を耳にします。
その何も変わらないというところには
「歓喜の心が起こらない」
「すっきりとした気分にならない」
「腹底から称えていない」
などといった言葉が返ってきます。
そして
「わたしの念仏は本物じゃない」
と。
確かに「自力の念仏」「他力の念仏」と言われたりしますから、
「私の念仏は自力だから駄目」
と考え込まれる気持ちは分かります。
しかし、弥陀の本願は「我が名を称えよ」というところにあります。
その「名(号)」には私を救うための功徳が収まってます。
私を救うことが出来なければ仏にならないと誓われた方が「阿弥陀仏」という名になられるのですから、私を救うための手立てが完成してるという証拠じゃないですか。
じゃあ、なぜ救うと誓わねばならなかったのかというと、ここに迷っている”わたし”が居るからでしょう。
そのものに、易く保てる形にするところまでのご苦労が込められて成就されたのがお六字です。
そのお念仏に出会わせていただいて、この口から称えさせていただいているのに、それを「自力」とレッテル張りしてるのは誰なんでしょうね。
自分の「こうなるだろう」という予想に当てはまらないから、満足できない…そんな浅はかな理由を、この念仏が自力だからなんて言い訳で突っぱねてるんですよね。
また、こんな大事なことを説いてくださっている人を、自分に合う合わない、得になるならないで、値踏みする心はないですかね。
この人だけが本物だ!なんていう風に、今までの知識や経験と比べてしまう。
無常だから、急がなければならないからと、「間違いのないように」と周辺事情を探ってしまい、肝心の「聞いておくれよ」の声に心が向かない。
それって、逆に無常をはねつけ遠回りしている姿じゃないですか。
「本願寺がこうなってきたから」
「今のお寺はこうだから」
「あの組織はどうだから」
いろいろ悔いたい気持ちはわかりますが、仮に華光が正しくても、そんなところを値踏みする対称にしていてはなんの意味もありません。
語るほうも聞くほうも、他を腐すんじゃなくて、目の前に示されている「法」を純粋に聞かせてもらえばいいじゃないですか。
そのことをご法話で「月指す指」のたとえでお話してくださいました。
そういう素直に聞けない浅はかなことを嘆かなくてもいいんです。
そこはもうお見通し。
いやそういう救いようのない身だからこそ、願わずにおれなかったんですから。
だから「正客」と言われる。
今回、いろんな先生から無常のことを教えてもらいましたが、私が頑張って、無常を知っていくのじゃなく、無常と知った方が先回りして本願を立ててくださってます。
このブログの文章だけでもここまで読む間に息を吸い、息を吐きしてるでしょう。
刹那の無常を、いつまでもないがしろにしてばかりの奴なんですから、自分で無常が知れるわけがない。
うーん、あまりにも一杯のことを聞かせてもらったんで、それを言葉にしだしたら収拾が付かないものになっちゃいました。
余計なものはいらないですね。
南無阿弥陀仏