コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

遠いところでのお話

2011-11-08 16:24:56 | PTA

今日は市P連の中の「はぐくみ委員会」が主催する全市交流会があり参加してきた。

「はぐくみ委員会」の今年度のテーマが「発達障害」を学ぶということで、個人的にも興味がある。

 

9月にも学習会に参加したが(「発達障害についての学び」9/10)今回も講師による講演会と、後半はグループでのワーク。

それぞれについてじっくり書きたいけれど、まだ熱いうちに感じたところをつらつらと。

 

まず、挨拶として市P連の会長が、この週末の3日間に訪問された仙台PTAフェスティバルと各地の視察の話をされた。

先週の理事会で、訪問されるという話は聴いていたが、「こういう目的を持って行ってきます」という言葉と、今回目の当たりにし、全身で感じてきたことを語る言葉では、伝わってくるものが大きく違っているのを感じた。

 

脚色や意識の誘導などがない、生の言葉。

同行された各役員さんの言葉にしても、立場や役割ではない、被災地の人と”出会った”そのままの話を伝えてくれる。

そう、伝わってくるものがある。

 

被災地の方々が伝えようとしても、遠い地で画面や紙面越しに聞いている言葉では、受け取り側の心の置き所が、その温度差が、「そのままに伝わること」が難しい。

もちろん、今回話された方々の言葉も、出会われた現地の方々の言葉の後ろのエネルギーをそのまま伝えることは出来ない。

しかし、何かを感じてきた人が私の目の前に”居る”

その人の言葉は伝わってくる。

「あぁ、言葉にしきれないものを感じてきたんだ」という、打ち震えるような”何か”が伝わってくる。

 

 

今回の交流会後、市P連会長に少しあいさつをする時間が合ったので、「伝わってきました」ということを伝えさせてもらった。

「うん、でもあれは一般向けの言葉にしていて、ほんとうに伝えたいことはまだまだあるんだ」というようなことをおっしゃっていた。

 

今回聞かせてもらった話の後ろにある、びんびんと感じてきた”何か”を、私が又聞きで伝えることは難しい。

見ていないことを見てきたように言うことはできないから。

 

ただ、被災地から遠くに居る私たちが”知っているつもり”のことは、かなりのフィルターが入っているということ。

時間とともに薄れていっている気がしているけれど、現地ではまだなにも薄れていないこと。

 

いや、こういう風に書いていても、これは頭の理解であって、肌で感じていることではない。

 

自分の感覚が正しいとは限らないよってところで、今はとどめておこうと思う。

 

他の事も簡単に触っておこうと思ったけど、このことを書き出したらちょっと感じが変わってきたので、今日はここまで。