火曜日は南支部PTA連絡協議会の委員会。
読み聞かせの大石先生をお招きしての講演会です。
大石先生は昨年度の指導者研修会でもお話を聞かせていただくご縁があり、今回2度目です。
(前回の分の記事1・2)
最初に二人の子どもの作文(ネットの日記)を紹介してくださいました。
ひとりは「親がいなかったらいいのに」という周りの人に対して「私は親がいないから、そういうことをいう人が恨めしい」という内容のものです。
ところが最後に「でもそれはうそ、ちゃんと親はいるもんね」と締めくくられているものです。
もうひとりは、親から離されて飼われてきた子犬に対して「君の気持ちはよくわかる、ぼくもお母さんがいないから」というもの。
でも実はその子の親は健在なのだそうです。
(聞き覚えなので正確な文章ではないです)
どちらも、ちゃんと親がいるのに「いない」と想定して文章を作る…とても独創的で想像力が豊かなんだなぁ、と…
ところがその後の先生のお話を聞いてびっくりしました。
ひとりは佐世保で同級生を刺殺した子、もうひとりは神戸の酒鬼薔薇事件の子。
すべてが単純に分析できるわけではないのですが、親との関わりがないために、「居ても、居ないと同じ」と言う風に思っていたのなら、とても悲しいことです。
これは、彼らの親を責めると言うことではなく、自分を振り返って、自分が思っている様にではなく、子どもがどう思っているのだろうかと心を寄せて、子どもとの関係を見つめる大事なきっかけをもらったんだと思いました。
その後も、最近見かけた親子の様子などを通じて、関わりの大事さを話してくださいます。
以前聞かせていただいた講演も、すでに私の中に入り込んでいますから、私が親子コミュニケーションの話題としてここに書くことには大石先生の影響もしっかりあります。
子どもの話を聞くことの大事さ。
面と向かって顔を見て会話すること。
子どもは親の姿を見て育つと言うこと。
それぞれのエピソードも楽しく分かりやすいもので、いずれ時間(と気力)があれば紹介したいと思います。
最後に、紹介してくださった子どもの詩をひとつ。
(これはレジュメでいただいたので原文のままです)
ぼくがおふろに入ろうとしてシャツをぬいでたら、
「かぜ、ひくから、早く入りなさいッ。」
と言われた。
「うん。」
と返事した。
ぼくが、はだかになって、
ふろばの戸をあけたら、
「はよ、つかりや。」
と言われた。
それで、ぼくは大急ぎで、
ふろにとびこんだ。
しばらくしたら、
「早よ出て、きれいに洗い。」
と言われた。
ぼく、あわてて、出てきた。
まだ、ちょっと、寒かった。
ぼくが、半分ほど、あろてたら、
「ぐずぐずせんと、早よ入り。」
と、また、言われた。
それで、ぼく、半分でやめて、
ふろに入った。
そして、出て来たら、
「よう、洗ってない。」
と言って、おこられた。
さて、笑っていられるでしょうか?
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