コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

日曜礼拝 2月

2009-02-09 01:23:40 | 真宗
今日は日曜礼拝でした。
ご法話は、今回が日曜礼拝では初法話というOさん。
テーマは「無常」でした。

こうやって仏法にご縁があると、この「無常」というのは結構身近なテーマですね。
しかし、子どもたちに実感してもらおうと思うと中々難しい。
「死」ということと向き合うことですから。
今日のO先生は、そこのところをご自身の幼少の体験を通じて「死ぬかもしれないと思ったこと」を話してくださった。

そのあと、子どもらは学年ごとに、大人は一まとめで分かれての座談会。
そこでご法話を振り返りながら話し合うんだけど…

「無常」という言葉は、真宗を求めだすと当然のようにぶち当たる言葉で、自分の命が「いつ尽きるやわからない」というところで「とり詰めて」聞いていくことを大きな課題としていかれる。
しかし、そうやって「無常をとりつめて」と口にする人ほど、無常を人事にしてしまうんじゃないでしょうか。

「無常」と聞かされ、それがわが身に突きつけられたならば、「無常」をどうこうしようなんてことは矛盾のきわみで、そんな悠長なことを言っておれないということに驚き、哀しみ、困惑してしまう。

自分で頑張って取り詰めるものではなく、ましてやこの身はどこまで行っても無常を無常と知れない身であると、そこに極まってくるところに「だからこそこの願を成就した」という弥陀の光が降り注いでいるんですね。

今日のご法話で、「無常のことをインドでは”非常”とも言います」ということを教えてもらいました。
非常事態…もうとんでもない状態になっていることを、自分で知るんじゃなく「大変だぞ!」と知らされているんですね。
自分じゃ何とも無いと思っていても、もう事態は起こっているんですね。

また、座談に始めてこられた方ともいろいろお話するご縁がありました。
「信心決定したい」「後生の一大事の解決がしたい」
いろいろお尋ねしていく中で、やはり「無常や罪悪をとりつめて…」ということをおっしゃる。
こちらが頑張って「決定」とか「解決」とか「とりつめて」なんて言っている間に、もうまっさかさまに堕ちている。
すでにそんな私はお見通しで「だからこそのお救い」と南無阿弥陀仏が用意されている。
どうか「帰命」しておくれよと。
「あれがわからないといけない」「これが納得しなけりゃいけない」なんてことは何一つ無いし、そんな暇も無い。

じゃあ「決定」とか「解決」とか「とりつめて」なんてことは無駄なのか…
いえいえ、そういうことを問題にして、こうして法座にお参りされて、座談と言う形で言葉を交わすことがどれほど稀で、どれほど尊いことか。
そういう問題にひっかからずに、「救いを必要としない」人もいれば、「もう勝手に救ってくださるから」と帰命を投げる人もいる。
それぞれの人がそれぞれの人生を歩んできて、その問題にぶち当たり、求めだすこと。
ただ、いつまでも「どうにかして今の自分から変わろう」というところを振り捨てて、この私は「どうしようもない」というところに実機を見る(見せられる)
そうするところに自他力廃立があるんですね。
まさに「求め、捨て、転ぜられる」

ある方が「すぐに間違ってしまう私を教えてもらいに来ました」とおっしゃいました。
どこまで行っても、自分中心に取り込んでしまう自分に気付けたら、あとはそんな自分を頼りにせず、相手にせず、本当の自分お姿と、そこにかかる願いを聞かせてもらうだけですね。

なんか、久しぶりに熱く書いてしまった気がします。
やっぱり、法座はいいですね。

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