自分が出会いお聞かせに預かった「仏法」というもの
これをどう伝えていくか
この人生の半分以上をかけて模索してきた気がする
活力ある頃は「聞かせていただいたものを、次に伝えるのは当然のことだ」という半ば使命感のようなものでとらわれていた気がする
特に、我が子に対して「それが親の責務だ」と
そう思わされた根拠は「この”私”において」お聞かせにあずかったのは、先達たちが私に伝えずにおれないという思いをもって伝道してくださった事実があるから
もしその流れの誰かが「もう伝えるのをやめよう」と思っていたら、私への道は閉ざされていた
だから、私が止めるわけにはいかない、と
しかし、いつしかそれは相手に対しての押し付けの感情となり、「私が止めるわけにはいかない」という思いへの自己満足となっていることに気づいた
相手のための伝道ではない、自分のためのものだ
もちろん、そのことは私にとって意味がある
もう一方で、子どもへの執着という面もある
この子が私のことして生まれてきた”ご縁”は、仏法を聞くためだ、と
しかし、その思いも力が入りすぎていたように思う
親子といえど仏法の前では「個」だ
子どもの後生・迷いの世界の責任を親がとることはできない(もちろんその逆も)
独生独死
もしこのまま我が子が仏法と縁がなく、哀しむべきことになったとしても私はその責任をとれない
そして、私がその哀しい思いをする責任は子どものせいではなく、私が私の”業”によって、引き起こし、引き受けていかなければならないもの
仏法を聞かない子どもと縁があったのは、私のせいなのだ
もし、喜ばしいことに仏法に出会う子になってくれたとしたら、それは私の手柄ではなく、仏様の手柄だ
当然のことだろう
などということを最近漠然と考えていた
伝道を押し付けることはしないが、私の思いを残すことで、もし何かが生まれるのならば
そんなことを考えて、少しずつ記録しておこうかなとも思う
ちょっと思索にふけるまとまった時間をもらう環境になったので
でも、長時間のPC作業に目が耐えられないので、とぎれとぎれになるのはご容赦願いたい
(あと、誤字脱字や文章の区切りのおかしいのもご容赦を)
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