子どもらに仏法を聞いてもらいたい
その根本願望は、力が入っていた時も力が抜けた今も変わりません
私の願望は願望として
でも、それを「絶対」とはせず、子どもらは子どもらの「選び」として
とはいえ、ご縁はつけておきたいので、子どもらの名前を付けるときに思いっきり願いを込めています
子どもらの生まれたときは「絶対に聞かせよう」と思っていたから余計にこだわってますね
4人の子どもがいますが、すべてほとけさまの「おはたらき」を紡いでいます
一人目は「深法」
「みのり」と読みます
「法」というのはほとけさまの願いそのもの
ほとけさまの願いを「仏法」と呼び、願いを聞くことを「仏法を聞く」といいます
法だけのことを「御法」といい、「ごほう」あるいは「おみのり」
といいます
私がほとけさまの願いに出会わせていただいたのが浄土真宗で、その宗歌のはじまりが
「深きみのりに遇いまつる」
なので、その漢字をいただき、深い法で「深法」
二人目は「真実名」
「まみな」と読みます
「名」というのは名前、ここでは阿弥陀仏という名前のことです
この「阿弥陀仏」というのはただの呼び名ではなく、あるほとけさまが、すでにご自身は悟りを開いているのに、衆生を救うためにわざわざ仏の位を捨て修業しなおしてくださった、そしてこの私を救う手立てが出来上がったときに「阿弥陀仏と名乗る」と誓われた
つまり、その名乗りが「お救い」でありほとけさまのおはたらきそのものなのです
「称名」というのはそのお名前を称えさせていただくこと
先に書いた宗歌の中に「六字の”み名”をききひらき」とあります
なので「まことのみ名」なので「真実名」
よく「真美名」と間違えられますが、”真実”というところに意味があります
三人目は「光」
「こう」とよみます
ほとけさまは姿・形がありません
みなさんがよく知る姿は、拝みやすいように人間の形を模して表されたもの
(だから偶像崇拝だと批判する方もいます)
ではどういうものなのか…一番イメージしやすいのが”光”です
まぁ、これも人間の知覚に合わせたイメージですが、光り輝くものは神々しく感じる、崇高に感じる、そういうことですかね
そしてもうひとつ、”光”には、ほとけさまの「知恵」「慈しみ」「願い」という側面もあります
お経を和訳したもののひとつに
ひかりといのち きわもなき
とはじまるものがあります
光明無量 寿命無量
のことで、そのお知恵やお命に限りがないと讃えているものです
だから、いつでもだれでもどこでも「いまそこにあるまま救う」と誓ってくださっています
四人目は「聲」
「しょう」とよみます
残念ながら、この漢字は常用漢字ではないので、学校などは「声」にしています
最近では「聲の形」という漫画・アニメになったので、少しメジャーになった字ですね(その勢いで常用漢字化してほしいのですが)
聲というのはほとめさまの呼び声
お前を必ず救うぞ
という力強いお誓いのことです
名聲超十方
という言葉がありますが、その聲は十方を超えるというもの
十方は四方八方に上下を加えたあらゆる方角、いやさらには過去も未来も超えた「あまねくいまここ」
と、どの名前にもほとけさまそのもの、願いそのものがこめることができました
その想いを子どもらに知ってほしいという力みはやはりありますが、こちらからの押し付けでなく、いつか子どもらが自分から向き合ったときにきっかけ、機縁となれば
そのときに直接伝えられたらいいのですが、こうして記録しておくことで
まぁ遺言ですね
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