じつは、昨年お出かけして、このブログで報告してた「お礼参りツアー」の記事はまだ完結してない
この旅で一番のテーマにしてたことが、どうにもうまく言語化できず、さらにはその後のいろんなご縁で、さらに”深く感じ”、余計に”軽く言葉”にすることが躊躇されている
そんなことをずっと感じながら、今日久々に西本願寺をお参りした
そのきっかけとして、SNSでお友達が発信してた話題を私なりに言葉にしたかったこともある
仏弟子の名乗り
帰依するということだが、何に依るのか
仏の道に入るということで、その根源として「仏陀の弟子」となる
お釈迦様の弟子
確かにお釈迦さまは「人間として」悟りを開かれたので、その弟子となって仏の道を説いていただく
が、”救い”を与えるのはお釈迦様ではなく、阿弥陀様
もちろん、宗派によっていろいろ違いはあるだろうけど
この私にとって依るべきは弥陀の誓願でしかない
ということで、西本願寺の阿弥陀堂をお参りしに行ったのだが、なんと内陣修復中ということで、本堂の中に壁を作ってさえぎられていた
まぁ、そこに在るのは”象徴”としての仏像であり、阿弥陀様はそこには在らず…
また、姿かたちも「人間」が、象徴として感じやすいようにしてあるだけで、阿弥陀様の存在は固定で現されるものではない
逆にいえば、仏壇にお参りせずとも、いつでもどこでも「ここ」に在られる
そのことを常に忘れるわが身だからこそ、固定の場所や物を通して出会わさせていただくのだが
何に依るのか
ぐるぐるとそういうことを、今時のお寺や儀式の意味なんかも含めて、のんびり考える時間を過ごした
(この先を言葉にすると、いろいろ批判的になるので今はやめておく)
そうそう、阿弥陀堂のご本尊は、隣の御影堂に移されて待っておられた
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