三日目のご法話は、昨日のようにテーマを黒板に書いたり、その言葉を使ったりはされなかったが、「無常」についてのおはなし。
法話の先生は仕事柄、子どもたちにいろんな話をする機会のある方。
その先生が、夏休みを控えて、子どもたちにいくつかの「夏休みの注意」を話したときのお話。
自転車のじこ
手洗い・うがい
知らない人についていかない
ぼうしをかぶる
海に行くときのちゅうい
プールに行くときのちゅうい
これらは怪我や健康上の注意です。
でも、先生が子どもらに伝えたいのは、こういうことを注意することよりも「死なないで欲しい」ということです。
普通に自転車でぶつかるくらいや、うがいを怠って風邪をひいたり、ぼうしを忘れて熱中症になっても、普通は死ぬとは思ってません。
でも、いくらこれらのことを注意していても「死」がなくなるわけじゃありません。
「無常」…それはいつ死がやってくるかわからないということです。
仕事の場では「死なないでほしい」というところまでしか言えなかったのでしょうが、本当は「いくら注意しても、死はやってくるよ」ということを教えてくださいました。
そしてある子どもの話をしてくださいます。
その子は5年生ですが、お風呂でおぼれて、死にはしませんでしたがずっと意識が戻らないままだと。
5年生の子が、まさかお風呂でおぼれるなんてだれも思っていません。
もちろん、その本人も思っていなかったでしょう。
思いもよらぬ事が起こってしまう…
大変なことです。
もうひとつ、先生の知り合いの方が亡くなったエピソードもお話くださいましたが、その方がなくなったことよりも、いつも「○○さんの後生は大丈夫か?」と問い続けてくださったことをお話くださいます。
先生も子ども大会出身です。
今回参加してる子どもらと同じ頃に、一生懸命お話を聞き、それでもそのときはわからなかったけれど、やがて大人になってしっかりと仏法を聞いて「大丈夫です」と教えていただいたと。
そのために必要だったことは「わたしはどうなるんだろう」ということを、しっかりと聞かせてもらい、見つめること。
最後のほうで先生は胸に来るのもがあったのか、少し言葉が詰まっていました。
小さな子にはわからないでしょうが、中学生くらいになると、言葉じゃなく雰囲気で「大事なこと」っていうのが伝わったんじゃないかと思います。
この3日間を通じて、「私のしていること」、「私はどうなる」と、徹底的にこのわたしのありようを教えてもらっています。
残すは後一日。
今日までは半分レクリエーションのプログラムもありましたが、いよいよ最後はしっかりと仏法に浸る一日です。
合間の時間にスタッフの先生方といろいろ話する事がありました。
それぞれ、子どもの頃から参加してる先生方ですが、スタッフとして初めていろんな役割をされています。
子どもで参加していなかった頃は知らなかった、先生方の苦労を身に染みて感じている姿に、大変だろうけど素晴らしいことだなと。
お世話する側の苦労まで体験して、初めて「子ども大会育ち」となるんですね。
それは、ずっと昔から、このわたしにかけられてきた願いを、逆の立場になって”ほんの少し”感じさせてもらえること。
彼らの姿を通じて、味合わせてもらえます。
南無阿弥陀仏
こちらこそ、なんかタイミングが合わなくてご挨拶できてませんね。
今年はべったりじゃなく、部分的にお手伝いしてるんで、付き添いの皆さんともあまりゆっくりお話できてません。
何と言っても、座談会をサボってますのでね。
まぁ、出来ることしかやりませんので…