4日目は午後にも閉会式としてご法話がある。
朝の法話・分級座談会も終え、帰り支度も済ませて、あとはそれぞれの思い出を持って帰るだけ…ところが、この最後の最後に、とても大事なお話がいただける。
子どもらそれぞれがわからんなりにも「わたしとはどういうものだろう」ということを内省し、深く見つめていった先に、「そんなわたしにかけられた願い」を聞かせてもらえる。
テーマとして書かれはしなかったが、「ほとけさまのプレゼント」でいいんじゃないだろうか。
プレゼントの包装には宛名が書いてある。
「○○ちゃんへ」と「なもあみだぶつ」。
ほとけさまのプレゼントも衆生それぞれに充てて、その一人一人をめがけて贈られる。
その中身は…
お仏壇のお荘厳を通じて、阿弥陀様の働きを教えてくださる。
お灯火をもち「ちえむりょう」
自分で自分を見ることは出来ない。
自分の姿を映す鏡の前に立っても、光に照らされないと何も移らない。
無智で自分を知れないわたしに向かって、光で照らして見せてくださる。
智恵のおはたらき。
これが限りない。
これが「なもあみだぶつ」のお働きのひとつ。
「光明無量」とも言うかな。
今度はお花を持って「じゅみょうむりょう」
命・時間に限りがあったら、迷いに迷い続けているこのわたしを救うためには条件が出来てしまう。
それでは願いがはたせない。
だから無量の命で持って「必ず救うぞ」と。
花びらが一枚散っても、まだまだ控えているさま。
実はわたしは、お仏壇のお供えとして「献灯・献花」するから、こちらから荘厳しているイメージがあった。
そういえば、お仏壇の花はほとけさまの方ではなくこちらを向いている。
「何故なのか?」というお話を聞いた事がある。
それが、この日のご法話ですごくよくわかった。
お光もお花も、ほとけさまのお働きを現している。
自分のしていることを見つめることすらできず、限りある命でいつまた迷い続けていくかしれぬ。
そんなこの身に、「ちえむりょう」「じゅみょうむりょう」のおはたらき(ぷれぜんと)でもって、すべて果たしてくださる。
その結晶が「なもあみだぶつ」
これほどシンプルなことは無い。
4日間を通じて、罪悪・無常を教えられ、逃れられぬ因果の道理を教えられ、そのすべてはこの「なもあみだぶつ」から始まっている。
そのプレゼントを受け取っておくれよと。
ただ「わが名」を称えておくれよと。
大人から見れば、「こどもむけの法座でしょ」と思われるかもしれないが、必要なものはすべて揃っている。
それを「大人用だ、子ども用だ」と選別してしまうのが聴聞を邪魔する、我執のすがた。
自分は大人だと思っている。
少しはましだと思ってる。
難しい言葉がわかると思っている。
まったく、阿呆の限りだし、もったいないことだ。
阿呆って誰のこと?
いえいえ、ほかならぬこのわたしでございます。
朝の法話・分級座談会も終え、帰り支度も済ませて、あとはそれぞれの思い出を持って帰るだけ…ところが、この最後の最後に、とても大事なお話がいただける。
子どもらそれぞれがわからんなりにも「わたしとはどういうものだろう」ということを内省し、深く見つめていった先に、「そんなわたしにかけられた願い」を聞かせてもらえる。
テーマとして書かれはしなかったが、「ほとけさまのプレゼント」でいいんじゃないだろうか。
プレゼントの包装には宛名が書いてある。
「○○ちゃんへ」と「なもあみだぶつ」。
ほとけさまのプレゼントも衆生それぞれに充てて、その一人一人をめがけて贈られる。
その中身は…
お仏壇のお荘厳を通じて、阿弥陀様の働きを教えてくださる。
お灯火をもち「ちえむりょう」
自分で自分を見ることは出来ない。
自分の姿を映す鏡の前に立っても、光に照らされないと何も移らない。
無智で自分を知れないわたしに向かって、光で照らして見せてくださる。
智恵のおはたらき。
これが限りない。
これが「なもあみだぶつ」のお働きのひとつ。
「光明無量」とも言うかな。
今度はお花を持って「じゅみょうむりょう」
命・時間に限りがあったら、迷いに迷い続けているこのわたしを救うためには条件が出来てしまう。
それでは願いがはたせない。
だから無量の命で持って「必ず救うぞ」と。
花びらが一枚散っても、まだまだ控えているさま。
実はわたしは、お仏壇のお供えとして「献灯・献花」するから、こちらから荘厳しているイメージがあった。
そういえば、お仏壇の花はほとけさまの方ではなくこちらを向いている。
「何故なのか?」というお話を聞いた事がある。
それが、この日のご法話ですごくよくわかった。
お光もお花も、ほとけさまのお働きを現している。
自分のしていることを見つめることすらできず、限りある命でいつまた迷い続けていくかしれぬ。
そんなこの身に、「ちえむりょう」「じゅみょうむりょう」のおはたらき(ぷれぜんと)でもって、すべて果たしてくださる。
その結晶が「なもあみだぶつ」
これほどシンプルなことは無い。
4日間を通じて、罪悪・無常を教えられ、逃れられぬ因果の道理を教えられ、そのすべてはこの「なもあみだぶつ」から始まっている。
そのプレゼントを受け取っておくれよと。
ただ「わが名」を称えておくれよと。
大人から見れば、「こどもむけの法座でしょ」と思われるかもしれないが、必要なものはすべて揃っている。
それを「大人用だ、子ども用だ」と選別してしまうのが聴聞を邪魔する、我執のすがた。
自分は大人だと思っている。
少しはましだと思ってる。
難しい言葉がわかると思っている。
まったく、阿呆の限りだし、もったいないことだ。
阿呆って誰のこと?
いえいえ、ほかならぬこのわたしでございます。
そうすれば 私も少しは 聞けるようになれるのではないかと こう思うわけです。
今の私の目標は 自力を捨てること
でも それは 自分で捨てようとすれば 自力になるから 捨てられない。
世間では 夢 夢 目標に向かって がんばることが 良いこととされている。ご近所でも 県大会に出場したり 海外に行って演奏を披露したりと みんな とても輝いているように見える。
そんな中 私は 何もせず 自力の壁の中でもんもんとしている。もともと 人との交流は 騙し合いか 自分が優位に立ちたいだけのものだと思っているから 人間関係もとても希薄。人のそういうところを見て うんざりするが自分の中でも 自分にもそういう能力があれば まっさきに使っていると思う。
今の会社も とても楽なもので 干渉されず自由にできるので いられる。でも 社長を見てると 遊びに仕事にバイタリティーあふれるもの。遊ぶことで 仕事を得ている。誰とゴルフをやるかで 仕事が決まる。
あ~~嫌だ嫌だ
娑婆世界の嫌なところを 垣間見て 私には絶対無理だということで さらに嫌気がさす。
私は 楽をさえできればよいのである。そう思って 今のところにたどりついた。責任はない わずかだが それなりに 食費の足しにはなる。そんな 望んだ生活をしているのにもかかわらず 本当に 虚しい。
毎日 毎日 ただ ただ 食べて出して 寝るだけで なんの張りもなければ 楽しみもない。
何かやればよいのか?でも また あの人間関係を垣間見るのは 苦しい。
また朝がきて・・・何も 楽しみもなく 会社へと出かけていく。
ふ~~~
人との関わりの中で 自分のいやらしさを見せてもらう
でも それは 耐えがたいもの
それを見るくらいなら 誰とも交流しない方が楽
そう思って 自分からは出ていかない
そしたら 出ていくところがなくなって・・・
気が遠くなるような 堕落的な毎日・・
すごい赤裸々です
こんな私を救ってくださる
こんな私に 願をかけてくださっている
そう 感じることが出来たのならば こんな虚しい毎日を過ごさずに済むのであろうか?
言ってしまいました
ネットだから言える
「自力を捨てる」言葉にすると難しいですよね。
おっしゃるとおり、自分で捨てようとするとそれが自力ですもんね。
>こんな私を救ってくださる
>こんな私に 願をかけてくださっている
>そう 感じることが出来たのならば こんな虚しい毎日を過ごさずに済むのであろうか?
そうですね。
「こんな私」ということを徹底的に見つめていけば、同時に「そこがお目当てなんだよ」というお慈悲に気付かせてもらえます。
自分では知ることの出来ない「こんな私」を気付かせてくださるのは「知恵の光明」
ぜんぶ、こちらで何かするのじゃなく、用意されているものですね。
自力を頑張って捨てなくても、もともと自力で役に立つものが無かった…自力が無効だった…そそれが「他力にお任せ」の本質だと思います。
と、もう少しいろいろかけるとも思うのですが、今晩から出かけますので、またゆっくりとブログのテーマにしてみます。
大事なところですからね。
よろしくお願いします
いやなところや醜いところを見るにつけ これがお目当てなのだと自力が働き これで救われるはずと胡坐をかいている
何をしたって 無駄無駄
と 何かに向かって頑張っている人を見ると そう思い ますます なまけに拍車をかけている毎日です