今日は華光の京都支部法座。
増井悟朗師をお招きして、「二種深信」のお話をしていただいた。
このテーマは、3月にあった講習会で1泊2日で話されたテーマだったが、「最後のほうが時間が無かったのでぜひもう一度」という世話役さんの希望で実現した集まり。
世間の法座は良く知らないが、講師の先生にテーマを指定してお願いするって言うのは、そうそう無いんじゃないだろうか。
それが出来る華光のよさと、受けてくださる先生の深さが身に染みる。
「二種深信」の中身についてはここでは述べないが、その渦中で「二種深信」に対する異安心・邪義を話してくださった上で、もう一度そういう間違いを超えた領解を示してくださった気がする。
そのあとの質疑・座談で話す方の姿を通して、まさに今話していただいた「聞きそこね」ということを感じた。
「機の深信」をたずねいていく過程で、「まだ罪悪”感”がたりません、もっと深めないといけないのか」という人がよくいる。
自分で機を深めようとするのは、自力の所作で、「機法一具」ではない。
法に照らされるからこそ、自分で都合よく見つめる「罪悪」ではなく、本当に流転し続けている我が身の本当の姿がわかるというのに。
また、「地獄行きだという事がわかりました」とそれで一丁上がりだと喜ぶ人もよくいる。
確かに、罪悪観を突きつけられても「自分のこととは思えない」という人よりは一歩進んでいるようにも思える。
しかし、そんな軽い地獄行きで知ったつもりになっているのは、「なんのために、これほどまでの願を立てられたのか」というところも軽くしてしまい、「救うとおっしゃってるんだから、任せとけば大丈夫ですわ、わっはっは」と、阿弥陀様を尻にいしいて高上がりしている姿でしかない。
そしてもうひとつ、「もう阿弥陀様にお任せです」と頭を下げておきながら、「これで安心、後生は任せたのだから、自分の機様(きざま)はどうでも問題ない」と済ましにかかってしまう姿。
これだけの仏願にであったならば、どこまでも「救われようの無い身」ということがますますはっきりしてくるのに、「一念」を過去のものとして、今・今を問わない。
「今、ここ、わたし」というのは信前の人のためではなく、”つねに没しつねに流転し出離の縁が無し”のままの私のためのことなのに。
そう、救うというのは阿弥陀様だが、私の機様は変わってはいないのだ。
ちょっと心境の変化があったくらいで、終わったこととする姿…恐ろしいことだ。
このようなことを「異安心・邪義」をいわれると、大事で遠い話(思いっきり間違っている人たち)のような気がしてしまうが、そうではなく、もっと身近な”わたし”の揺れる心境の様ではないだろうか。
ここを、自分のこととして聞かずに、「理屈では判る」とか「理解できる・できない」などとしてしまう姿こそ、「自分で機様を探る姿」じゃないだろうか。
「罪悪観・無常観」だけの話じゃない、「自分を頼りにする」ことが、「機を深く観る」ことを遠ざけてしまう。
「これは予定概念じゃないか」と自分の心ばかり探ったり、「これはどういう心境のお念仏だろうか」と六字を量りにかかる姿。
そこをめがけてただ「南無阿弥陀仏」が仕上がっているんだ、と。
帰ってからの心境を心配するのではなく、今目の前で先生の姿を通して「お聞かせに預かっている」のに、「聞くだけだとはわかるのですが」と耳を閉じている姿…いや、これは人ごとじゃない。
最後に、先生がやかんを手に持って一人一人についで回られた。
なんと申し訳ないことか。
先生にお茶を注がせることが申し訳ないんじゃない。
法が、一人一人めがけて飛び込んできている姿じゃないか。
目の前の出来事に恐縮している場合じゃない。
いったい、何人がそのことを感じたのか…
そのことを感じさせてもらっている我が身が、どれだけお手間をかけてきたかを省みずにいられない。
そこには勿体無いだとか、申し訳ないだとかはいらない。
そのお手間と、飛び込んできた中身に向かって、ただただお念仏申すだけだ。
南無阿弥陀仏
一つには決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に 没し常に流転して、出離の縁あることなしと信ず。
二つには決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑いなく慮りなくかの願力に乗じ て、定んで往生を得と信ず。
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