コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

報恩とは…

2010-01-11 02:21:03 | 真宗

報恩講 一日目です。

久々に懇親会に最後まで、その後もちょっとお話をしてから帰ってきました。
先日のエントリーで懇親会に消極的なことを書いてましたが、まぁ「そのときの気持ちに従う」ということで…というか、実際は少し無理した加減もあるきもします。
まぁ、それも含めてそのときの気持ちなんですけどね。

と、振り返ってみると「関係が出来ている」人とは、それがどんな場であっても楽に、自由にすごすことが出来ます。
なのでむしろ、「あなたとはいい関係ができていないと思います」ということをはっきりさせたくなくて、そういう場を避けているという言い方も出来ます。

具体的には「この人がいるからこの場に居たくない」というものがやっぱりあるんですね。
それを出るときと出ないときとで「この人」をはっきりさせたくない…ああ、これはもうかっこつけ以外の何者でもありません。

その辺を紛らわせるために、広い部屋にいながら隅っこのほうで壁側に向いてパーソナルスペースを侵さないという姿に表れていたなと。

こんなことをブログで表明させる事自体馬鹿げたことなんですが、その限定された「いい関係」が気持ちよかったもんで、変な方向に”開いている”のかもしれません。 


という話はこの辺で終わるとして、肝心の報恩講のお座はすばらしいものでした。

法話の先生のお話は「何をどう聞く」という要の話を丁寧に丁寧に話してくださいます。
実はそう書くのは少し不安があります。
言葉だけ「何をどう聞く」とかくと、すごく方法論のように見えるから。

なので、できるだけ(うまく伝わらなくても)言葉にするとしたら、大事な聞き方・大事な中身を提示してもらうことで、そう聞けていない今の自分をあからさまにしてもらうためのお話。
「こう聞きなさい」「これが正しい」ではなくて、「どうやったって聞けていない姿でしょ」ということ顕かにしてもらう。 
そして「だからこそ願わずにおれなかった」という本願に振り返らせてもらう。
うーん、やっぱうまい言葉にはなりません。
でも、私には顕かになっているんです。

もうお一人の先生のお話も「聞く心もなければ、称える心もない」という私の姿を教えてくださいます。
それを懺悔するでも責めるでもない。
それが私の姿だと。

よくぞそんな者柄に「南無阿弥陀仏」を仕上げてくださったなと。
うーん、今日は言葉を重ねれば重ねるほど無意味になる気がして…
それでいて書かずに居れないエネルギーが渦巻いています。

明日もう一日、法座は続きます。
これを読んで、まだ間に合うという方は、「どうしようか」という思いを振り捨てて、だまされたと思ってお参りください。
(責任は負いませんが)


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