3日間の御法座、華光大会が終わりました。
お世話くださった方々に感謝と、出会った方々に御礼を。
今回は、私自身にとっては新しい試み、「少人数の部屋」というものを担当しました。
そのことで、いろいろと感じている事があります。
華光の御法座では、法話として先生のお話を聞かせていただいた後、座談会と言う時間を大事にしています。
前回少し書いたように、様々なご縁で仏法に出会い、そこから様々な思いで「求める」方々が集まります。
何人かの先生方にお願いして、できるだけ多くの方にその思いをお話していただいたり、聞いていただいたりする時間ですし、一方的に聴いて終わらすのではなく、100人いたら100通りの出会い方があるように、きめ細かくその方の「今」にあわせて、讃談談合が進められていきます。
しかし、会の規模の都合もあるのですが、先生と部屋の数には限りがあり、多くの方がお参りされるとどの部屋も20名以上というような大人数。
限りある時間の中で、話したい事が話せないまま終わることも珍しくありません。
もちろん、自分が話しているときだけではなく、他の方の話される様子などを通じて、またそういう場面での先生方のお姿を通じて、気付かされること、聞かされることもちゃんとあります。
しかし、こちとらみな凡夫ですから、なかなか思うようにはいきません。
その思うようにいかないと言うことの中に、「大人数の中だと話し辛い」という思いもあったりします。
しかも、話してみたい、放してみたいということを持っているときは、なかなか外からの話が耳に入ってきません。
いや、耳には入っているのでしょうが、「話したいこと」を出してしまわないことには、そこに心が引きずられ、「そのまま」お聞かせに預かることは難しいことでしょう。
この「少人数の部屋」が企画された意図にどのようなものがあるのかすべて聞いたわけではないのですが、「こういうことをしてみたいのですがお願いしてもいいですか」と聞かせていただいたときに、私の中では「話したい、放したい」方の時間にできればいいなという思いがありました。
もちろん、どんな方が来られるかわからない、もしかしたら誰も来られないかもしれない…でも、どのような顔ぶれ、形になっても、私は私以上のことは出来ないってところで安心している感じもありました。
と、前フリで長くなりましたが、結果として、5回の機会すべて、それぞれの顔ぶれでそれぞれの大事な時間を過ごさせてもらった気がします。
基本的には「大人数の場所だと話しづらい」という方がお見えになるのですが、なぜ話しづらいかもそれぞれです。
ひとつには「緊張してしまう」と言うこともあるかもしれませんが、もうひとつ大事な事があるなと思わせていただきました。
多くの同行と一緒に行う座談会には、すでに様々な”苦労”をしてきた先輩諸氏が居られます。
「自分のしてきた苦労と同じ事をして欲しくない」というありがたい気持ちから、いろいろと「それじゃ駄目」というお勧めの仕方が現れたりします。
また「無常」だから、「はやく一歩出て欲しい」というありがたい気持ちから、ゆっくり留まることを待ちきれないお勧めの仕方が現れたりします。
これは大事なことですから、それをどうこう言うつもりはありません。
そういうお勧めに会った時に、「困ってしまう」ことが多くある気がします。
「よくはわからないけれど、ちょっとだけ”ありがたい”気持ちになった」
とても大事な気付きだと思います。
そういう方が居られるときに、そういう気持ちになったことを受け止めないまま(いや、受け止めてはいると思いますが)そのさらに次を求めてしまったり、それは心の変化だと決め付けられてしまったり、さらにはそこで留まっては駄目などと大きな声でしかりつけられるように言われてしまうと、今度はそういう心の動きを「表明」することが怖くなってしまいます。
黙ってしまう、あるいは「じゃあ別のものを」と心を探って、挙句には思ってもいない「優等生の答え」を出してしまう…
そうすると「頭でばっかり動いている」と叱られる。
たしかに、頭で受け答えしていることもあるでしょうが、心の動きを言葉にすることを「邪魔」するようなお勧めがないともいえません。
こういうお勧め…これは私がしてきていることです。
多くの方が居られて、いろんな方が気になる、時間が気になる…
あせっているのは私のほうなんですね。
ちょっと長くなってきたので、今日はここまでにします。
お世話くださった方々に感謝と、出会った方々に御礼を。
今回は、私自身にとっては新しい試み、「少人数の部屋」というものを担当しました。
そのことで、いろいろと感じている事があります。
華光の御法座では、法話として先生のお話を聞かせていただいた後、座談会と言う時間を大事にしています。
前回少し書いたように、様々なご縁で仏法に出会い、そこから様々な思いで「求める」方々が集まります。
何人かの先生方にお願いして、できるだけ多くの方にその思いをお話していただいたり、聞いていただいたりする時間ですし、一方的に聴いて終わらすのではなく、100人いたら100通りの出会い方があるように、きめ細かくその方の「今」にあわせて、讃談談合が進められていきます。
しかし、会の規模の都合もあるのですが、先生と部屋の数には限りがあり、多くの方がお参りされるとどの部屋も20名以上というような大人数。
限りある時間の中で、話したい事が話せないまま終わることも珍しくありません。
もちろん、自分が話しているときだけではなく、他の方の話される様子などを通じて、またそういう場面での先生方のお姿を通じて、気付かされること、聞かされることもちゃんとあります。
しかし、こちとらみな凡夫ですから、なかなか思うようにはいきません。
その思うようにいかないと言うことの中に、「大人数の中だと話し辛い」という思いもあったりします。
しかも、話してみたい、放してみたいということを持っているときは、なかなか外からの話が耳に入ってきません。
いや、耳には入っているのでしょうが、「話したいこと」を出してしまわないことには、そこに心が引きずられ、「そのまま」お聞かせに預かることは難しいことでしょう。
この「少人数の部屋」が企画された意図にどのようなものがあるのかすべて聞いたわけではないのですが、「こういうことをしてみたいのですがお願いしてもいいですか」と聞かせていただいたときに、私の中では「話したい、放したい」方の時間にできればいいなという思いがありました。
もちろん、どんな方が来られるかわからない、もしかしたら誰も来られないかもしれない…でも、どのような顔ぶれ、形になっても、私は私以上のことは出来ないってところで安心している感じもありました。
と、前フリで長くなりましたが、結果として、5回の機会すべて、それぞれの顔ぶれでそれぞれの大事な時間を過ごさせてもらった気がします。
基本的には「大人数の場所だと話しづらい」という方がお見えになるのですが、なぜ話しづらいかもそれぞれです。
ひとつには「緊張してしまう」と言うこともあるかもしれませんが、もうひとつ大事な事があるなと思わせていただきました。
多くの同行と一緒に行う座談会には、すでに様々な”苦労”をしてきた先輩諸氏が居られます。
「自分のしてきた苦労と同じ事をして欲しくない」というありがたい気持ちから、いろいろと「それじゃ駄目」というお勧めの仕方が現れたりします。
また「無常」だから、「はやく一歩出て欲しい」というありがたい気持ちから、ゆっくり留まることを待ちきれないお勧めの仕方が現れたりします。
これは大事なことですから、それをどうこう言うつもりはありません。
そういうお勧めに会った時に、「困ってしまう」ことが多くある気がします。
「よくはわからないけれど、ちょっとだけ”ありがたい”気持ちになった」
とても大事な気付きだと思います。
そういう方が居られるときに、そういう気持ちになったことを受け止めないまま(いや、受け止めてはいると思いますが)そのさらに次を求めてしまったり、それは心の変化だと決め付けられてしまったり、さらにはそこで留まっては駄目などと大きな声でしかりつけられるように言われてしまうと、今度はそういう心の動きを「表明」することが怖くなってしまいます。
黙ってしまう、あるいは「じゃあ別のものを」と心を探って、挙句には思ってもいない「優等生の答え」を出してしまう…
そうすると「頭でばっかり動いている」と叱られる。
たしかに、頭で受け答えしていることもあるでしょうが、心の動きを言葉にすることを「邪魔」するようなお勧めがないともいえません。
こういうお勧め…これは私がしてきていることです。
多くの方が居られて、いろんな方が気になる、時間が気になる…
あせっているのは私のほうなんですね。
ちょっと長くなってきたので、今日はここまでにします。
こちらこそ、ありがとうございました。
司会役、ご苦労様でした。
>少しは意識して望めました
私なんかがお役に立てているのかどうかわかりませんが、常々「意識してみてください」って書いていることに応えてもらえるのは嬉しいです。
>わたしに願われたお心に触れました
なんか、今回は「願われている」がキーワードになっていた気がしますね。
先生方のお話がそうだったこともありますが、私の座談会でも言葉には出なくてもそのことをお一人お一人に感じましたし、それが全部私に向かってきて「まぎれもない、この私が、いま、ここで願われているんだ」って味わえました。
>ご縁あれば膝を交え、酒を酌み交わしたく
ぜひご一緒しましょう。
(大きな法座ではそういう時間を相変わらず避けてる私なんで、ごめんなさいね)
来年の聞法旅行は、私もお手伝いさせてもらいたいと思ってます。
私が、念仏碑と、私にとって大きな存在だったTさんのお心に、もう一度触れさせてもらうために企画されたんじゃないかと思ってますので。
南無阿弥陀仏
永代経に参加させてもらって
もう この時を逃したら 経済的にも時間的にも物理的にも 無理だと思って 自分をさらけ出したつもりだった。
ところが 結局のところ 誰か私に私をかまってもらいたいだけの小さい小さい 我を強くしただけかもしれなかった。
あんなに 時間をかけてもらって もう 恥ずかしくて 格好が悪くて
もちろん経済的な理由もあるけれど それを理由に ほんとうは 自分の我のために行けないでいるのかもしれない。
都合良く 娑婆世界を生きるために 心の支えにしようとしている。だけかもしれない。
ここのところ 煮詰まってきてしまい このままで どうしようという不安がある。
今は 何を読んでも 文字を追うだけで 頭に入らない。聞こえてくることも見ることも なにも入らない といった感じです。
痴呆にでもなってしまいそうです
なったらなったで それが 仏様に出会える縁になるかもしれませんね
と 余裕で言っていられない 今の私です
すみません いつまでたっても自分のことにとらわれて 自分の安心ばかりおっています
こんな私を 願っておられるお方がいるのですね
と また言ってみても 私の頭で仏様を小さくしてしまっているんでしょうね。
とにかく こうなったら
南無阿弥陀仏さ間を信じて 称えさせてもらう以外に やはりなさそうです。
と こんなことは 公表しなくとも良いのですが 誰かに聞いてもらいたくて
>私は 少人数の部屋にも入れませんでした。
>永代経に参加させてもらって
先日の法座は華光大会だったのですが、今回来られて「少人数の部屋」に入れなかったと言うことでしょうか?
そうではなく、永代経にお参りされていたときのことだとしたら、そのときはこの「少人数の部屋」は行っておりませんでした。
「少な目の人数で」っていうものはありますが、今回は「3名(私入れて4名)」までに限ると言う、ほんとうの少人数でしたから。
もし、今回の華光大会にお参りされていたのでしたら、ごめんなさい。
その後に書いてくださっていること、じっくり拝見しました。
「こういうつもり」>「でも本当はこういう自分」
こういう感じで、すごく自分を見つめておられるなと読ませていただいています。
揺れている感じでもありますし、振り子が揺れながら定まっていくように、少しずつ「今・ここ・わたし」にたどり着かれている感じもあります。
ですので、今回は一つ一つ繰り返させていただくことはせず、「かたつむり」さん自身がもう一度書かれた「わたし」というものを読むことで、出会ってくださればいいかなと。
大事なことをしっかり言葉にしてくださっています。
>と こんなことは 公表しなくとも良いのですが 誰かに聞いてもらいたくて
こういう理由も大歓迎です。
というか、ぜひ聞かせてください。
ありがとうございます。
今回の華光会には参加しませんでした
振り子が定まったのは
不安というところ・・・
不安に対して 受け入れることがなかなかできないから定まれるものも 定まらない
不安を不安と認めてあげれば安心するのかな?
でも不安と認めたら 余計に不安になりそうで認められない 受け入れられない
今日は 高校の公開講座で歎異抄の第7章を聞きに行きました。
そこで 知り合いに出会いました。
話しているうちに 自分の心の中が 見えてきて ますます 人との関わりがやりきれなくなりました。
こういうところで行きあうと すごく嬉しくて つい 自分のことをしゃべってしまう。そこまでは なにってないけれど そうすると彼女のほうも心を開いてくれる。
そのとたん 「大丈夫だよ 先生 こういうこと言ってたから」と 得意になって言っている自分がいた。
傲慢な自分がいた
私が喜んだのは 彼女も私と同じように苦しんでいるんだと思ったとたん 私のほうが少しこういうことは先輩よっていう気持ちが出た。
私が喜んだのは ここでした
何でも話せる 私のために 私の話を聞いてくれる人を見つけた。
上に立っていた。
だから 私がこういうところにいるのを 彼女が「あ~なんとなくわかる気がする」って言った時 カチンとくる。なんか 見下されたような感じがした。そうかと思えば 私が生きづらくってと打ち明けた後「いつも堂々としてて そんなふうには見えなかった」と言われ しめしめ と思う自分がいた。
相手の言葉で いちいち カチンときたり優越感を感じたり なんでこうも 振り回されるんだろうというくらい。
私の安心や喜びは 私の優越感であり人を傷つける そうかといって 逆もまたしんどい。
だから人と関わると げっそり疲れる。
お念仏に救われるとは こういうことが どうなることなんだろう?
>振り子が定まったのは
>不安というところ・・・
という感じなんですね。
でも、受け入れられないから定まらない。
認めたら不安になりそうで認められない、受け入れられない。
と言う感じで居られるんですね。
今は定まってないし、認められないし、受け入れられない…っていうのが「かたつむり」さんの居場所ですね。
お友達との関係で、相手の出方によって
自分のほうが先輩よっていう気持ち
見下されたような感じ
しめしめと思う自分
というふうにコロコロ代わる心を抱えているんですね。
そういうことが「しんどい」んですね。
>お念仏に救われるとは こういうことが どうなることなんだろう?
そうですね、その「?」に応える言葉を私は持っている気がします。
でも、今は言葉にしないほうがいいかなって気持ちもあります。
今日はここまでにしておきますね。