中P連の新旧合同理事会と同じ日に「保護司新任研修会」に参加してきた。
PTAの活動をしていて、ご一緒させていただく方が保護司をされていたり、「社会を明るくする運動」に支部理事として参加させていただいたりと、それまで無縁だった「保護司」という言葉に縁ができてきた。
そんな中、地域のPTA会長の先輩から、この地域で保護司を受けてくれる方が減ってきているのでどうか?とお誘いがあった。
PTA活動をしていると、地域との連携というのは大きなテーマとなる。
また、青少年の非行からの立ち直りの機会に地域の受け入れが重要なことも学んでいた。
断る理由は無かった(いや、経済的なことや他の役割の忙しさなど理由はいくらでもあるのだが)
そして今年度から役目を引き受けることとなり、その委嘱式と初任者研修が行われた。
あらためて、研修を受けながら感じたことの中心は、他の活動と同様、カウンセリングの学びの”実践”がここにあるんだなと。
保護観察の当事者はもちろん、その家族の方の「話を聞く」というのはとてもウェイトの大きな作業で、その面接に関わる研修は(研修自体は来月行われるが)カウンセリングの用語だらけだったりする。
まずは基本的な傾聴が必要なのはもちろん。
そこに、なかなか心を開かない当事者や、自分の思い通りになると思い込んでいる保護者などと関わるには、ベーシックを超えた「新しい傾聴」のレアケースの学びが生きてくる。
今後、具体的なケースを書くことはできなくなるだろうけど、保護観察が必要になるケースの多くには、家庭環境や社会と適用の問題が横たわってくる。
そこには発達障害の問題も深く関わってくrだろうし、ちょっと周りが理解の手を差し伸べることで円滑なコミュニケーションができるのに、差異を受けいれることが難しい現状では、不要な諍いも起こりうる。
そのあたりは、ここ数年関わっている発達障害の学びが生きてくる。
また、保護観察のなかで重要な案件となる就職先の問題なども学び、また実際に受け入れてくれる企業との折衝なども必要になってくるだろう。
そのことは、これから進めていく発達障害の社会適用へのプログラム「SSTワーク(ソーシャル・スキル・トレーニング)」への転用も可能だろう。
このように、学びとしてインプットしてきたことの実践として、このタイミングで引き受ることになった!”意味”が繋がってくる気がする。
そして、おそらくは直接的な動きにはしにくいだろうが、「罪を犯すようなパーソナリティも特別なことではなく、、うしろそういう風にしかできないものをこそ”お目当てだよ”と言ってくれる、阿弥陀仏の受容」ということが私の根底にある限り、あえて宗教活動にしなくとも、私の中の要素として真宗が息づいてくる。
そう、保護司として関わる相手ではなく、私自身が問われる活動としてこの役割がある。
宗教を、「死んだ後の問題」(後生)として、今生きている実感抜きで語ることも間違いではないだろう。
あるいは、今生きていることへの癒しとして、根本の「一切皆苦」をごまかして祈祷や呪いと同じ感覚で「いま幸せになる手段」としてしまうのも間違いではないだろう。
しかし、その両極端にこだわり、他を否定し攻撃することは本来の宗教ではない。
今の苦しみを明らかにしながら、それをも肯定される感覚(事実)を身に受けていく。
そのことを気づかされた私だからこそできる活動として。
お釈迦様の手のひらから逃げることのできなかった孫悟空のように、どのような側面からどのような活動をしようとも、真宗やカウンセリング、PTAなどの活動が絡みに絡まって、今を生きる私に問いかけてくる。
おそらくいろいろと困ったことも体験するだろうが、このタイミングで引き受けた意味を味わいつつ、学びと実践を続けていきたい。
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