コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

フォーカスしてる?してない?

2009-09-24 23:52:32 | 日常雑感

 

この連休の後半、兵庫県西部にある知人のお寺に遊びに行かせてもらった。
メインは家の連れ合いともう一人が、先方の坊守さんとおしゃべりをする約束をしていたというもの。
さらに、3家族の子ども同士が「華光仏の子ども大会」の仲間で、再会を楽しむということ。
というわけで、私は運転手として狩りだされるという…

遊びに行かせていただき、ご馳走や様々な会話、法の話・子育ての話などを楽しんだ翌日、お母様方は三人でゆっくり談笑、子どもらはそれぞれで遊んでいたので(ご住職は法務でお出かけ)私一人のんびりと本堂でゆっくりさせていただいた。

こころ静かにフォーカシングするには、お寺の本堂ほど適した場所は無い…はずなのに、こちらの心はころころと定まらない。
浮かんでくる問題にじっくりと向き合うということで行くと、ぜんぜんフォーカシングできていない。
しかし、何が浮かんでこようとその一つ一つを否定しないでキャッチしていくという点では、じっくり向き合っているとも言える。

この辺が、まだフォーカシングということを深く認識・習得できていないということだろう。
この程度で「フォーカシングをしている」とは言えない。

ただ、そんな私でもまったく経験していないときよりは、フォーカシングを意識する事が出来るという点では大きく変えていただいた。


最初、こころ静めて自分に向き合ってみようと思わせたのは、その前に見ていたメールの中の話題。
それに刺激され、ある人物のことを考え出す。
考えようとしているのか、意識から追い出そうとしているのか、その時点でその問題に焦点が当たる。
(追い出そうと考えている時点で、その人のことを考えてしまっている)
じゃあ、その問題をどうしたいのか尋ねてみる。
明確な答えが出てこない。
いろんな想像(こういう風に関わってきたらこう、ああいう風に関わってきたらああ)ばかりあふれてきて、具体的なものは出てこない。

そのうち、「じゃあこの問題に関わる根本を避けてみるのはどうだろう」と考え出す。
絶対に関係者に出会う事が無いように、周辺の関わりも絶っていけば…
もうこの時点でただの妄想。
しかし、具体性の無い妄想は楽しく、次々と心が遊んでいく。
想像の中でいろんな人の反応を作り上げていく。
かなり病的な感じがしてきた(これは打ち込んでいる今の感じ)

いつしか、南無阿弥陀仏のことに思いは捉われていく。
正確には、これだけいろいろ考えが浮かんでくるのに、南無阿弥陀仏が浮かんでこないという自分自身に対して。

そのことを駄目だとも思わず、かといって善しとも思わず。
他人と関わったとき、その人に対してだといくらでも出てくる阿弥陀仏のおこころ。
自分自身に向けてみると、なんとも動かない自分というのは実にこっけいだ。

ここまで南無阿弥陀仏を手放してきたのか、と。
おそらく多くの方にはわかってもらえないだろうが、この南無阿弥陀仏に「頼ってない感」がすがすがしく思える。
お寺の本堂で、阿弥陀仏の前にあって、まったくその存在を意識しなくて大丈夫な感じ…

いろんなことが滑稽に思えてくる。
あえて言葉にするならば、もうなにもなく、スライムのように…

もうちょっと感じをうまく言語化できればいいんだろうけど、このときと今でももう時間の隔たり、感じの隔たりがあるから、言葉に留める作業がむなしくなってくる。

そうか、やはり一人で探っていくのはただの内省で、誰かに聞いてもらいながらその瞬間瞬間に言葉にしていくのがフォーカシングなのか…と今フッと思った。

せいぜい、いろんな人を踏み台にして、このどうしようもないやつの正体を暴いていくしかないか。

土曜日には「地域若者サポーター養成講座」の交換会
日曜日は「日曜礼拝
次の週には「東京公開法座」(お世話役で参加します)


捨てるべきものは捨て、出会うべきものは出会い…
それが南無阿弥陀仏に内包されている(もうちょっとちがった表現したいんだけど、言葉が見つからん)


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