コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

法座でのコミュニケーション

2011-05-07 00:16:11 | 真宗カウンセリング

今回の法座の中で、もうちょっとだけコミュニケーションを意識したらいいのになって思わされることがいくつかあった。

幸い、少人数の座談会であったことと、司会役という立場でもあったので、気になったことを言葉にして伝え、少しだけ進行の整理をさせてもらった。

 

ある方(発言者)が今の気持ちをゆっくりと話されている。

最近あった出来事(震災)に絡んで、その後の心境を話されているのだ。

そのうち、その震災に対して、ある方(Aさん)が反応したネット上の言葉をとりあげ、その発言者が「どうしてそんなことを言ったんだろう」ということを話された。

そして、そのときから続く”感じ”を言葉にしようとされていた。

そのとき、ある方が「きっとAさんはこういうつもりで言ったんですよ」とフォロー(?)を入れる。

また別の方も「そうそう、Aさんがそう言われた事情にはこういうことがあって…」と。

この発言者よりも、周りの方は多少事情を知っているかもしれない。

しかし、今大事にすべきは、この発言者の”今の感じ”であって、Aさんへの誤解を解いたり、Aさんの代弁をすることではない。

(ましてや、この場にAさんは居ないのだ)

 

そのAさんの発言をめぐる話題を通じて、震災と仏法の話が出来ないこともない。

そこから仏法の深い部分に触れていくことも出来るだろう。

しかし、一生懸命”今の感じ”を言葉にしようとする過程だったことを大事にしたかった私は、お二人の発言を止めさせてもらって、発言者の言葉に戻すことをさせてもらった。

 

結果として、このときの短い時間ではこの発言者が劇的に心情を変化させていかれることはなかった。

しかし、ここに居ない方の話題中心に、ワイドショー的に「私は事情を知っている」「私はこう想像する」なんて展開よりは、じっくり向き合ってもらえる時間が持てたのではないかと思ってる。

 

 

また別の場面。

発言者が今の感じを言葉にする過程で「以前はこうでした」ということをいろいろと振り返って折られた。

長く求めてこられた方が、かつてあった心情の変化を吐き出すことで、それらが駄目だったことを確認する作業だ。

そのときある方が横からそっと肩を抱きながら「うん、私もそうだった」と寄り添っていかれた。

不安を持ちながら話する方に、「あなただけじゃない、私もそうだったから大丈夫」という風に、そこに居てあげることは大事なことだと思う。

しかし、そこにもう一言付け加えるものがあった。

「うん、私もそうだった。○○さんはこういう気持ちだったんでしょ」

これは想像であり、自分も似た経験があったからきっと一緒だという決め付けになる。

発言者と、この言葉をかけた方は生きてきた年月も環境も、ましてや聴聞暦はまったく違う。

経験が違うのだ。

 

発言者の言葉を通じて、自分の聴聞を振り返り、「私はこうだった」ということならば問題はない。

また、まったく違う言葉ならば「私は違う」と発言者もはっきり自覚できるだろう。

しかしこの「似たような感情」は一番やっかいで、発言者が思っている感情が、その”似た感情”にすりかえられてしまうおそれがあるのだ。

ここは、じっくりと発言者が自分の言葉にするのを待っていてほしい。

 

自分の経験でもそうだが、自分自身で何とか言葉にしてみても、それを口に出したとたんになんかスッキリせず、また違う言葉を捜す作業を繰り返してだんだんとはっきりしたものになっていく事が何度もあった。

そこに他人の言葉が入ると、自分の中からおぼろげに出てきている感じが外の言葉に固定されそうになる。

 

コミュニケーションの手段の中には、聞き手が流れの中で言葉を駆使して、発言者が言葉にするのを補助・援助するものもある。

しかし、それは発言者がとことん「言葉にする作業」をした上のことで、時間がないからとか、待ってられないからという聞き手の事情で行われるものではない。

 

 

発言をさえぎった方には申し訳ないが、私はこの”待つ”というスタンスを大事にしていきたい。

なので、じっくり関われる極少人数の座談が最近は一番心地よいのだが、そうとも言ってられない事情もあるので、少し悩みどころだ。


月指す指

2011-05-03 19:07:04 | 真宗

永代経での座談会や、聞かせていただいたご法話の中に、なんとなく今回のテーマのようなものがありました。

もちろん、法の話の取次ぎですから、どこか一部分を取り出して語られていくものではありません。

あえて言えば、テーマは「南無阿弥陀仏」でしかありませんから。

 

そんな中でも、座談である方に話していたことと、最終日に先生から聞かせていただいたご法話が見事に一致しており、私の中のテーマ的になっていたように思えるのです。

(もちろん、同じ話でも先生がされるご法話は見事にまとまっていて、私のように雰囲気で語られるものではないんですけどね)

 

 

よく座談の席で

「お念仏を称えろと言うのなら称えますよ。でもなにも変わらないじゃないですか」

という言葉を耳にします。

その何も変わらないというところには

「歓喜の心が起こらない」

「すっきりとした気分にならない」

「腹底から称えていない」

などといった言葉が返ってきます。

 

そして

「わたしの念仏は本物じゃない」

と。

 

 

確かに「自力の念仏」「他力の念仏」と言われたりしますから、

「私の念仏は自力だから駄目」

と考え込まれる気持ちは分かります。

 

しかし、弥陀の本願は「我が名を称えよ」というところにあります。

その「名(号)」には私を救うための功徳が収まってます。

私を救うことが出来なければ仏にならないと誓われた方が「阿弥陀仏」という名になられるのですから、私を救うための手立てが完成してるという証拠じゃないですか。

じゃあ、なぜ救うと誓わねばならなかったのかというと、ここに迷っている”わたし”が居るからでしょう。

そのものに、易く保てる形にするところまでのご苦労が込められて成就されたのがお六字です。

 

そのお念仏に出会わせていただいて、この口から称えさせていただいているのに、それを「自力」とレッテル張りしてるのは誰なんでしょうね。

自分の「こうなるだろう」という予想に当てはまらないから、満足できない…そんな浅はかな理由を、この念仏が自力だからなんて言い訳で突っぱねてるんですよね。

 

 

また、こんな大事なことを説いてくださっている人を、自分に合う合わない、得になるならないで、値踏みする心はないですかね。

この人だけが本物だ!なんていう風に、今までの知識や経験と比べてしまう。

無常だから、急がなければならないからと、「間違いのないように」と周辺事情を探ってしまい、肝心の「聞いておくれよ」の声に心が向かない。

それって、逆に無常をはねつけ遠回りしている姿じゃないですか。

「本願寺がこうなってきたから」

「今のお寺はこうだから」

「あの組織はどうだから」

いろいろ悔いたい気持ちはわかりますが、仮に華光が正しくても、そんなところを値踏みする対称にしていてはなんの意味もありません。

語るほうも聞くほうも、他を腐すんじゃなくて、目の前に示されている「法」を純粋に聞かせてもらえばいいじゃないですか。

 

そのことをご法話で「月指す指」のたとえでお話してくださいました。

 

そういう素直に聞けない浅はかなことを嘆かなくてもいいんです。

そこはもうお見通し。

いやそういう救いようのない身だからこそ、願わずにおれなかったんですから。

だから「正客」と言われる。

 

 

今回、いろんな先生から無常のことを教えてもらいましたが、私が頑張って、無常を知っていくのじゃなく、無常と知った方が先回りして本願を立ててくださってます。

このブログの文章だけでもここまで読む間に息を吸い、息を吐きしてるでしょう。

刹那の無常を、いつまでもないがしろにしてばかりの奴なんですから、自分で無常が知れるわけがない。

 

 

うーん、あまりにも一杯のことを聞かせてもらったんで、それを言葉にしだしたら収拾が付かないものになっちゃいました。

余計なものはいらないですね。

南無阿弥陀仏


3日間の永代経法要

2011-05-02 13:10:16 | 真宗

 

 

あっという間の3日間でした。

まぁ、私自身の問題で、法座に参加しながらも夜中は仕事に行って、午前中の法座は休んで寝ていると言う、いかにも集中に欠けた参加形態でしたから。

 

しかし、逆に数が厳選された法座ではしっかり集中力を発揮し(あくまで自称ですが)私らしい関わりができたのではと。

人の姿を通じ、先生方のお話や姿勢を通じ、弥陀の働きを存分に感じるとともに、この身からあふれるお念仏に十分浸らせてもらいました。

 

 

数年前だと、ほとんど朝方まで讃談しながら飲む(飲みながら讃談?)することも普通で、少ない睡眠でも3日間の間は問題なかったりもしてました。

しかし、やはり寄る年波か、薄く長い時間をかけるよりも、座談なら座談に集中できることを中心にしだした気がします。

 

元々は諸事情で懇親会に参加することをやめたんですが、これが座談会への集中を増していることに気づきました。

いや、懇親会や休憩時間の讃談も、立派な法座ですし、基本そういうのが大好きです。

でも、なんか3日間の使えるエネルギー総量が決まっているとしたら、そういうところよりも力の使いどころがあるなと。

食事時間や懇親会は別行動して、私の身の置き場は座談会。

もっとも、これもいつまで続くか分かりませんが。

 

で、座談会での関わりに集中すると言うことは、その座談会に臨まれる皆さんの”今”に大きく関わるご法話をないがしろには出来ません。

いや、そんな他人のためではなく、私のためにしっかり聞かせていただく。

その聞かせていただいたものを活き活きさせるのが座談会なんですね(あくまで私の場合はですが)

だから、回数は減っても、しっかり関われる状態で臨む座談会。

 

 

実際、人の話を聞かせてもらうというのはとてもエネルギーが必要です。

自分の言いたい事を話すほうがはるかに楽です。

いや、別にカウンセリングをしようと思っているわけではないんです。

でも、ご法話などで先生方からしっかり法水を浴びられてるんですから、ご自身の口からその浴びたものを言葉にしていくだけで良いんです。

だから、こちらから与えたり促したりするんじゃなくて、ただただ語りたいように居ていただく。

そのための聞き役です。

語り手に寄り添うだけ。

 

ただ、複数の方が集う座談会ですから、途中でいろいろと影響を受けて動く方も居られる。

もちろん、そういう方も大事にしたい対象です。

でも、私の力不足で、いちどに多くの展開を引き受けられない。

なので、今語っておられる方を一番にさせてもらいます。

幸い、普段関わりのある方が多いですから、直接関わらなくても、目の前で語られている姿を通してご自身の問題として聞いてくださっているという信頼があります。

みんな弥陀に願われてここに居るのですから。

 

そして、今回のご縁はまさに、長年ご聴聞されている方が、自らのことを語る中で、自らが聞かせていただいていることを言葉にして、自らの言葉に気づいていかれる様をありありと見せてくださいました。

こちらはちょこっと整理するだけ。

語られた言葉の中の大事なところを言葉にして返させてもらうだけ。

もうすでに働きはあるのですから。

 

 

1回だけ大人数のグループにも参加したのですが、やはり難しさを感じました。

まぁ、ただ大人数ということだけではなく、様々な要因があるのですが。

 

 

と、状況の話ばかりになってしまいましたが、聞かせていただいた中身についてはまた項をあらためて…