月末の火曜日に母校で授業を2時間半受講した。
授業はN先生の「人材育成の方法」という授業だ。その際、学生は19名いたが、OBが5名乱入したようなものだ。
もともと、ゼミの先輩が本をだしたので、その内容を授業の一部で紹介するといった企画に、ゼミの後輩+同期が抜け抜けと「受講したい」と申し出たことに始まる。
N先生は気さくな先生で、このOBたちの申し出を快諾していただき、ちゃっかり、タダで授業を受講させていただいたわけだ。
通常、9コマで12万円ということなので、1コマの授業は1万3千円以上となる。無論、修了生は割引があり、2万円で受講できる制度はあるのだが・・・
まあ、優秀な後輩達が参加していたのだが、その中に、産能通教で見知った彼を発見!がんばってるな~、偉いぞと関心した次第です。
産能大から産能大学院に進んだ先輩や、後輩、そして同期もいるのだが、なんだか、そういうのって、うまくいえないのだけれど、何かしら、うれしいな・・・自分自身がそうだからかもしれないが、彼や彼女らの実力からすれば、もっと、有名な大学院にいけたはずである。
私も、仕事との兼ね合いがなければ、違う大学院をもっと対象として検討し、結果、産能大学院以外の大学院にいっていたかもしれない。19時に授業をスタートする希少な大学院として、あるいは、唯一通えるMBAコースとして、私には、ここしかなかったのだ。
それが、私にとって、非常にすばらしい学習環境と人的ネットワーク、あるいは、モチベーションを与えてくれたのだから、何が幸いするかわからない。いまだから言えることなのだが、私は、この大学院に入学し、通学し、修了できたことを、心より、満足し、その選択をできたことを感謝している。
私は怪我の功名なのだが、先に述べた、彼or彼女は、当初の目標として、産能大学院があったわけで、その先見性というか、ポリシーに感動し、「天晴れ!」と喝采してしまうわけだ。
そして、私と同じ、楽しみ、苦しみ、悩み等の感情を共有できる者として、その存在を、うれしく思うわけだ。書いた論文も、厳密に言えば修士論文ではない。しかし、その成果は、経営科学を中心とした問題解決のためのコンサルティング能力である。目の前に、問題があれば、それを解決せずにはいられない。あえて、火中の栗を拾うが如く、ムリ・ムダ・ムラを徹底的に叩く本能の育成。
そういう環境で2年間学ぶ。それが我々であり、時間を共有したものにとって、彼or彼女達は同志であり、たとえ、同じ時期に籍を置かなくとも、本学を修了したという事実のみで、なんだか、お互い、旧知の間柄のように思えてしまう。
だからこそ、この、湧き上がる、嬉しさというか、楽しさがあるのだろう。
授業はN先生の「人材育成の方法」という授業だ。その際、学生は19名いたが、OBが5名乱入したようなものだ。
もともと、ゼミの先輩が本をだしたので、その内容を授業の一部で紹介するといった企画に、ゼミの後輩+同期が抜け抜けと「受講したい」と申し出たことに始まる。
N先生は気さくな先生で、このOBたちの申し出を快諾していただき、ちゃっかり、タダで授業を受講させていただいたわけだ。
通常、9コマで12万円ということなので、1コマの授業は1万3千円以上となる。無論、修了生は割引があり、2万円で受講できる制度はあるのだが・・・
まあ、優秀な後輩達が参加していたのだが、その中に、産能通教で見知った彼を発見!がんばってるな~、偉いぞと関心した次第です。
産能大から産能大学院に進んだ先輩や、後輩、そして同期もいるのだが、なんだか、そういうのって、うまくいえないのだけれど、何かしら、うれしいな・・・自分自身がそうだからかもしれないが、彼や彼女らの実力からすれば、もっと、有名な大学院にいけたはずである。
私も、仕事との兼ね合いがなければ、違う大学院をもっと対象として検討し、結果、産能大学院以外の大学院にいっていたかもしれない。19時に授業をスタートする希少な大学院として、あるいは、唯一通えるMBAコースとして、私には、ここしかなかったのだ。
それが、私にとって、非常にすばらしい学習環境と人的ネットワーク、あるいは、モチベーションを与えてくれたのだから、何が幸いするかわからない。いまだから言えることなのだが、私は、この大学院に入学し、通学し、修了できたことを、心より、満足し、その選択をできたことを感謝している。
私は怪我の功名なのだが、先に述べた、彼or彼女は、当初の目標として、産能大学院があったわけで、その先見性というか、ポリシーに感動し、「天晴れ!」と喝采してしまうわけだ。
そして、私と同じ、楽しみ、苦しみ、悩み等の感情を共有できる者として、その存在を、うれしく思うわけだ。書いた論文も、厳密に言えば修士論文ではない。しかし、その成果は、経営科学を中心とした問題解決のためのコンサルティング能力である。目の前に、問題があれば、それを解決せずにはいられない。あえて、火中の栗を拾うが如く、ムリ・ムダ・ムラを徹底的に叩く本能の育成。
そういう環境で2年間学ぶ。それが我々であり、時間を共有したものにとって、彼or彼女達は同志であり、たとえ、同じ時期に籍を置かなくとも、本学を修了したという事実のみで、なんだか、お互い、旧知の間柄のように思えてしまう。
だからこそ、この、湧き上がる、嬉しさというか、楽しさがあるのだろう。