さて・・・いよいよ明日が、武蔵野大学大学院の二次選考の日です。
常人が行わない学びを追求し、一度、修士の学位を得た武蔵野大学大学院人間学研究科に舞い戻る計画です。何故、一度修了した人間学研究科という修士課程に再度入学を試みるのか?実は、2年前修了したのが「人間学専攻」であり、今回目指すのが「仏教学専攻」なのです。
ようやく、人間研究の最終フェーズに届いたかな?という気持ちになっております。MBAとして人的資源管理を、教育学修士として社会人教育を、人間学修士としてキャリア形成を、学術修士(人間発達科学プログラム)として学位研究を・・・といった感じで、人間中心の研究を続けてきたのですが、やはり、人間とは行き着くところ、最後は「死」であり、それを支えるのが宗教だと思っています。ですので、仏教学がひとつの終着点といえるのかもしれません。
人間、どれだけ学んでも最後は死んで灰になります。人間、どれだけお金を儲けても墓場までしか持っていけません。内閣総理大臣として名誉を得た人々も、概ね最後は指弾され、その地位を維持するのは困難です。持ち上げられてきた社長が、明日には犯罪者として逮捕される世の中。あるいは、安全安全といわれたエネルギーが、最高レベルの殺人装置となり、何の罪も無い人に襲いかかります。
いったい、この何も信じられない世の中、明日の自分がどのようになるのか何の保証もない世の中において、どのように生きていけばいいのか?その迷える人々を導いてくれるのが宗教だと思っています。信教の自由は憲法で保障されており、何を信じてもよいとされています。しかし、日本人は意図的なのか、宗教というものに、極力触れないようコントロールされています。
それが証拠に、一般の公立学校で学習してきた人々で、「学校で宗教を学びました」という人はどれだけいるのでしょう。あるいは、死生学といった「死ぬこと」について学習してきた人はどれだけいるのでしょう。
あまりにも「宗教」や「死」について学習することがタブー視される世の中だからこそ、ガン等命にかかわる病気にかかわった瞬間から、生きる意味を見失ってしまうことがあるのです。というか、「死」に対して、どのように立ち向かえばいいのか、全く免疫がないわけです。それは、逆に、「生きる」ことについて、あまりにも日本人は無頓着だということに他なりません。
生きることの大切さ、自分が生かされているということの不思議さ、あるいは自然も含めてすべてが自分と繋がっている共生への感謝、そういった、諸々の偶然の蓄積こそが、何らかの大きな力の作用であり、その力こそが宗教というものではないかと思っています。そして、真宗大谷派に属する私としては、その大きな力の源こそが「阿弥陀仏」と置き換えることで、すべてがうまくつながるわけです。
「阿弥陀仏」は別名「無限の光を持つ仏」として「無量光仏」とも呼ばれます。そう、光がなければ、人類を含め、地上の生命がすべて消え去るのであり、そう考えると、「光」というものは宗教を差し置いても非常に大切なものと考えることができます。無限の光は、すべての人々、あらゆる世界の生きとし生けるものに、その慈悲の恵みを与えています。ゆえに、その恵みに感謝することが宗教の基本ではないかと思っています。
生かされている不思議を認識すれば、その不思議ゆえに、粗末に命を断ち切ってはいけないと思うでしょうし、自分が勝手に生きているのではなく、不思議な力の配慮により、生かされていると思うなら、無為に時間を浪費することの罪悪感と、何か有益なものに時間を投下したいと思えてくるのではないでしょうか。
ここまでは、宗教というものに素人の私が勝手に行き着いた考え。それをより深く学びたいから、仏教学を専攻する。自分のアイデンティティのよりどころを見つけるために、2年間、仏教を中心に宗教を学びたいと思うわけです。その学びの中で、また、新たな「人」に対する考え方が生まれてくれば儲けもの。それが発見できなくても、決してムダにはならない学習だと思っています。で、今の私の心は、画像のように澄み渡っています。
常人が行わない学びを追求し、一度、修士の学位を得た武蔵野大学大学院人間学研究科に舞い戻る計画です。何故、一度修了した人間学研究科という修士課程に再度入学を試みるのか?実は、2年前修了したのが「人間学専攻」であり、今回目指すのが「仏教学専攻」なのです。
ようやく、人間研究の最終フェーズに届いたかな?という気持ちになっております。MBAとして人的資源管理を、教育学修士として社会人教育を、人間学修士としてキャリア形成を、学術修士(人間発達科学プログラム)として学位研究を・・・といった感じで、人間中心の研究を続けてきたのですが、やはり、人間とは行き着くところ、最後は「死」であり、それを支えるのが宗教だと思っています。ですので、仏教学がひとつの終着点といえるのかもしれません。
人間、どれだけ学んでも最後は死んで灰になります。人間、どれだけお金を儲けても墓場までしか持っていけません。内閣総理大臣として名誉を得た人々も、概ね最後は指弾され、その地位を維持するのは困難です。持ち上げられてきた社長が、明日には犯罪者として逮捕される世の中。あるいは、安全安全といわれたエネルギーが、最高レベルの殺人装置となり、何の罪も無い人に襲いかかります。
いったい、この何も信じられない世の中、明日の自分がどのようになるのか何の保証もない世の中において、どのように生きていけばいいのか?その迷える人々を導いてくれるのが宗教だと思っています。信教の自由は憲法で保障されており、何を信じてもよいとされています。しかし、日本人は意図的なのか、宗教というものに、極力触れないようコントロールされています。
それが証拠に、一般の公立学校で学習してきた人々で、「学校で宗教を学びました」という人はどれだけいるのでしょう。あるいは、死生学といった「死ぬこと」について学習してきた人はどれだけいるのでしょう。
あまりにも「宗教」や「死」について学習することがタブー視される世の中だからこそ、ガン等命にかかわる病気にかかわった瞬間から、生きる意味を見失ってしまうことがあるのです。というか、「死」に対して、どのように立ち向かえばいいのか、全く免疫がないわけです。それは、逆に、「生きる」ことについて、あまりにも日本人は無頓着だということに他なりません。
生きることの大切さ、自分が生かされているということの不思議さ、あるいは自然も含めてすべてが自分と繋がっている共生への感謝、そういった、諸々の偶然の蓄積こそが、何らかの大きな力の作用であり、その力こそが宗教というものではないかと思っています。そして、真宗大谷派に属する私としては、その大きな力の源こそが「阿弥陀仏」と置き換えることで、すべてがうまくつながるわけです。
「阿弥陀仏」は別名「無限の光を持つ仏」として「無量光仏」とも呼ばれます。そう、光がなければ、人類を含め、地上の生命がすべて消え去るのであり、そう考えると、「光」というものは宗教を差し置いても非常に大切なものと考えることができます。無限の光は、すべての人々、あらゆる世界の生きとし生けるものに、その慈悲の恵みを与えています。ゆえに、その恵みに感謝することが宗教の基本ではないかと思っています。
生かされている不思議を認識すれば、その不思議ゆえに、粗末に命を断ち切ってはいけないと思うでしょうし、自分が勝手に生きているのではなく、不思議な力の配慮により、生かされていると思うなら、無為に時間を浪費することの罪悪感と、何か有益なものに時間を投下したいと思えてくるのではないでしょうか。
ここまでは、宗教というものに素人の私が勝手に行き着いた考え。それをより深く学びたいから、仏教学を専攻する。自分のアイデンティティのよりどころを見つけるために、2年間、仏教を中心に宗教を学びたいと思うわけです。その学びの中で、また、新たな「人」に対する考え方が生まれてくれば儲けもの。それが発見できなくても、決してムダにはならない学習だと思っています。で、今の私の心は、画像のように澄み渡っています。