今頃気がついたのですが、今日は9月11日だったのですね。
2001年9月11日、アメリカで同時多発テロが発生した日。深夜にたたき起こされて、高熱の中、タクシーで本店に馳せ参じたことを思い出します。それから、もう、13年・・・月日が経つのは早いものです。
何せ、どのような辛い出来事も、苦しい経験も、悲しい別れも、その瞬間から「過去の事象」へと、ゆっくり移ろっていくのです。歴史の一コマとしてのみ、存在を許されている立場としては、そこ場に、立ち止まることは許されないのです。1秒前、1分前、1時間前、1日前、1ヶ月前、1年前・・・といった風に、すべての「思い」は、その瞬間から「思い出」へと変換されていくわけです。
強烈な悲嘆のあまり、思い出の中でしか生きられない人もおられるのですが、多くの人々が、その思い出を背負って、新たな未来へと立ち上がります。辛く、苦しく、悲しいことなのですが、悲嘆のプロセスを経て、回復し、日常生活へと戻っていかれます。
天文学的な確率から、「自分」というものが生を受けたというのは、「非常に幸運」でもあるのですが、一方で、四苦八苦という苦しみを背負わなければいけない、「非常に不幸」な存在でもあります。
しかし、それを嘆いていても、何も変わらないのです。ですから、精一杯、今を生きるしかないわけです。1日生きれば、同時に、1日分命を失い、確実に死に一歩近づきます。でも、それでいいのです。だって、私達には、それしか選択できない訳ですから。
今の私には、そんなことぐらいしか、思いつかないのです。
2001年9月11日、アメリカで同時多発テロが発生した日。深夜にたたき起こされて、高熱の中、タクシーで本店に馳せ参じたことを思い出します。それから、もう、13年・・・月日が経つのは早いものです。
何せ、どのような辛い出来事も、苦しい経験も、悲しい別れも、その瞬間から「過去の事象」へと、ゆっくり移ろっていくのです。歴史の一コマとしてのみ、存在を許されている立場としては、そこ場に、立ち止まることは許されないのです。1秒前、1分前、1時間前、1日前、1ヶ月前、1年前・・・といった風に、すべての「思い」は、その瞬間から「思い出」へと変換されていくわけです。
強烈な悲嘆のあまり、思い出の中でしか生きられない人もおられるのですが、多くの人々が、その思い出を背負って、新たな未来へと立ち上がります。辛く、苦しく、悲しいことなのですが、悲嘆のプロセスを経て、回復し、日常生活へと戻っていかれます。
天文学的な確率から、「自分」というものが生を受けたというのは、「非常に幸運」でもあるのですが、一方で、四苦八苦という苦しみを背負わなければいけない、「非常に不幸」な存在でもあります。
しかし、それを嘆いていても、何も変わらないのです。ですから、精一杯、今を生きるしかないわけです。1日生きれば、同時に、1日分命を失い、確実に死に一歩近づきます。でも、それでいいのです。だって、私達には、それしか選択できない訳ですから。
今の私には、そんなことぐらいしか、思いつかないのです。