生涯学習の部屋

資格取得数238。6つの修士と18の学士と2つの短期大学士。MBAサラリーマンの生きがい発見生涯学習奮闘記。

またもや、リコール・・・

2016年01月17日 20時09分32秒 | その他
我が家の車はトヨタの車。

電話でトヨタから、エアバックのリコールの電話がありました。これで2回目のリコールです・・・その昔、東京都といえども、多摩地域の小平市では車がないと生活困難ということで足代わりになる車を買いました。本当は、スズキの「スイフト」という車を買いたかったのですが、ちょうど、授業でお世話になった産能大学大学院の先生がトヨタの相談役だったので、トヨタの車に変更したことを思い出します。

スズキの「スイフト」という車を購入しようと思った理由。それは、ただ単に車の名前が「スイフト」だから。銀行で外為業務をやっていると「SWIFT」にかかわらない日はありません。なんせ、国内外との通信手段は「SWIFT」でやるのが一般的ですから。その昔は、「TELEX」を使っていたのですが、今は、ほとんど「SWIFT」ですね。

先生にはいろいろお世話になっており、足を向けて寝ることができないくらいの御恩があります。酔いつぶれて、お宅に泊めていただいたこともあるし。だから車はトヨタで、確かな走りに満足しているのですが・・・リコールが多いのが難点。

まあ、リコールするのも品質管理が徹底している証なのでしょう。三菱自動車工業のパジェロだっけ、リコール逃れの小細工をして、その信頼を大きく損ねた事件がありました。そんな企業と比べれば、やはり、トヨタはまっとうな企業と感じるのですが、電話で連絡してきた担当者が、その信頼を大きく損ねてしまう・・・大恩ある先生の会社をこれ以上ひどく言うわけにはいかないのですが、本当、残念な対応でした。

で、腹が立ったので、いつも車検をお願いしているトヨタの店にお願いしたところ、6カ月点検に合わせてリコールもしていただけることとなりました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

管理不備

2016年01月17日 11時05分26秒 | その他
スキーツアーのバス転落事故について、今日の日経新聞朝刊39面にバス運行会社の法令違反がかかれていた。

今回の事故関連
・運行指示書を作成せず
・乗務前と終業後の点呼を実施せず
・運転手2人とも健康診断受診せず
・下限額を下回る運賃で契約

他の運行における違反疑い
・複数の運転手の過労
・運行記録計に記録紙装着せず
・乗務記録の記載漏れ

本来、事故を起こさないためにルールがあるわけなのだから、これだけ違反があれば、事故が起こっても不思議ではない。本来、運行修了後に行うべき終業点呼の記録に、あらかじめ実施済みの押印があったというのだからやりきれない・・・しかも、運転手は大型バスの運転経験が4回程度だったとも記事には書かれており、たった4回の運転で業務として、多くの大切な命を目的地にまで運ぶ役割を担っていいものか?と疑義を挟んでしまう。

長男も2月にスノボをしに雪山へ向かう。そのため、今回、長男と同じ年齢で犠牲となった学生さんを思うと、本当に他人事ではないと感じている。

資本主義の論理として、価格の安いものが比較優位を持つこととなる。でも、その低価格が法令を無視した労働条件によるものだったり、産廃トンカツだったり、中国の賞味期限切れ病死鶏肉だったりすると、生命の危機にもつながってしまう。

何が正しくて、何が間違っているのか?それを見極める「目利き」にならないと、法令違反の業者を儲けさせ、真面目で正直な業者を廃業に追いやる手助けをしてしまうかもしれない。そうなると、ブラック企業ばかりが世の中にはびこり、結局、我々消費者は、命を危うくすることとなってしまうのだから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阪神大震災から21年・・・

2016年01月17日 10時32分23秒 | ちょっと立ち止まって・・・
もう、21年となるのですね・・・

1995年1月17日に発生した阪神大震災。6434人の方々が犠牲となりました。ちょうど、1995年1月13日に東京から大阪への転勤の発令があり、東京での引継期間中での大惨事に、本当に、大阪でやっていけるのだろうか?と困惑したのを覚えております。

大阪に転勤した私の最初の仕事は、神戸の支店の応援。瓦礫の中、ひび割れかろうじて建物として成り立っている支店において、お客さまの応対をしたことを思い出します。慣れ親しんだ神戸の街が、ところどころ、悲惨な廃土と化した状況に涙しました。

でも、そんなことを忘れさせるほど、今の神戸は普通の街に復旧しました。しかし、6434人もの命を奪い、生活の拠点を喪失させ、それぞれの日常を一瞬にして奪い去った震災の影響は、人々の心の中に何かしらのトゲとして残っているのかもしれません。私の大学の後輩も震災で命を失い、前途ある未来を失ってしまいました。

常々、100年も経てば、ほとんどの人々はこの世に存在していないと、人の命の無常を言っていますが、それはあくまでマクロベースの話。相手の顔が見わかるほどの、ミクロベースの話としては、やはり生きて命を活かして欲しいと願っています。故に、心がつながっている方の死において、私は涙を流すのです。釈尊の説かれた「四苦八苦」の、「八苦」の一つである「愛別離苦」を受け入れることは、凡夫である私には叶わぬレベルの話なのですから。

ただ、グリーフケアの観点から考えると、愛する者を失った悲しみから抜け出すことは困難なことなのです。そう、「悲嘆のプロセス」という言葉があるように、そのプロセスを経て、なんとか日常生活に復帰することとなるのですが、それを短時間でできる人もいれば、プロセスから抜け出せず、未だに悲嘆の世界の住人となってしまっている人もいることでしょう。

臨床心理学や医学的見地からアプローチすることが相応なのでしょうが、やはり、今の私なら宗教学から考えてしまいそうです。仏教学を専攻するまえは、心理学的に震災の影響を考えることが多かったのですが、私も当時の転勤のタイミングによっては、犠牲者の一人になっている可能性もゼロとは言えなかった訳で、自分が生かされている現状に対して考えることがあります。単に「運が良かった」「運が悪かった」という話で終わらせることは簡単なのですが、今、自分が生きている理由を考えると、深い思索の底なし沼に沈み込んでしまいます。

だから、生かされている以上、それを受け入れ精一杯生きていかねばならないと思うこととしております。私ができることは、ただ、それだけなのですから。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする