以前、このブログがご縁で大学院関連のアドバイスをさせていただいたかたから、武蔵野大学大学院を修了し、学位記が到着しましたとのご報告をいただきました。
こういうご報告は大変うれしいですね!私自身、同じ専攻は違えど、人間学研究科を同じタイミングで修了しましたから。2年前にはどうしようと悩んでいた方が、ちょっと勇気を出すだけで、2年後には学位を取得されている・・・このような現実が、私の周りではよく起こっているのです。
人生80年とすると、2年は1/40です。でも、その2年は大学や大学院で没頭する2年ではなく、仕事をしながら、家庭と両立しながら、取り組むことができるくらいのレベル感です。故に、限界があるのも事実。もし、学会でも耐えうる立派な研究を絶対するんだ!というのなら、通学制の大学院の方がいいだろうし、博士課程を目指すべきでしょう。
私は、結構、いい加減な人間なので、限界を超越しようなどという、大それた野望を持ち合わせていません。もともと、スタートが「生涯学習への取り組み」ですし、「社会人としてできる範囲でいいじゃないか」と割り切って学んできました(といいつつも、明星では修士論文は4名の発表論文ですし、武蔵野も学会で発表しましょうと先生に言われている水準で、手抜きとは違うことだけお含みおきください)。
仕事や家庭を持つ社会人が、仕事や家庭を疎かにすることなく、病気にならない程度の健康を保つことができる限界。
その程度が、我々の取り組む生涯学習の上限だと思っています。それ以上を求めると、何かしら、ゆがみが生じ、その「ムリ」により大切なものが犠牲となります。それが、「等価交換」というものなのですから。学習時間を得るために、何を代償とするかがポイントです。「遊んでいる時間」「テレビを見ている時間」「趣味に興じる時間」そういう、人生において、なんとでもなる時間を等価交換のカードにしないと、大切なものを失ってしまいます。
失うものが、「仕事」なのか、「信用」なのか、「愛」なのか、「健康」なのか、そこまでは私もわかりませんが、人としての本分を守りながら生きていくために、失っていいものと悪いものを見極めないと痛い目にあいます。無論、ギャンブル的に、大切なものを、一時賭けに出すというのも自己責任において許容されると思いますが、私は、そういうの無茶は絶対にイヤだ。
といいつつ、綿密な計画の下、社会人がなんとか「ムリ」なくできる学習の上限を、12年間の学びの中でさらしてきたつもりです(笑)。それに、私より能力のある方なら、もっと、立派な成果を上げることができるでしょう。でも、求めるものが大きくなればなるほど、試験や発表が重なる等、タイミングによっては、簡単に限界を突破し、不本意なものを等価交換の代償として提供せざるを得なくなってしまうかもしれません。
メールで修了の報告を下さった方もそうですが、私が10年間で実証した通り、大学のえり好みさえしなければ、今の社会人大学院なら、2年で十分修了できます。ただ、それをやるかやらないかだけの話。
ちょうど、部屋の掃除が終わったので、手元にあった20枚の学位記を並べてみました。これが私の12年間の学習の証。人ひとりぐらいなら、並べた学位記の上で寝ることができそうな面積となっております。20枚の学位記を取得しても、社会人としての日常生活に大きな変化はありませんでした。でも、逆説的に言うならば、日常生活に大きな変化をもたらさなくとも、これぐらいの学位記は取れたことにもなります。普通の社会人の生活を続けつつも、恩師を得ることができたり、会社以外の友達が出来たり、知らないことを知ることができたのは得難い経験だと思っています。そういう意味では、私は最初の一歩を踏み出すことをお勧めします。