もうすぐクリスマス・・・
きょうからblogのテンプレートも『聖夜』に模様替え・・・
ここ広島の街は、
今、外では雪がしんしんと降っている。
12月の積雪で、17cmは記録的らしい。
こんな夜は「♪White Christmas」の曲がぴったり!♪♪
クリスマスはイエスキリストの誕生日。
2000年前にお生まれになったイエスさまのご生誕をお祝いする
大切な日だ。
もしもベビーちゃんが生まれるとしたら、
どこの家庭でも、
きっと、家族みんなでその日を楽しみに待つだろう。
ベビーベッドや可愛いお布団、
お花柄の肌着や小さな靴下・・・を準備して。
「男の子かしら?」
「女の子かしら?」
名前まであれこれ考えるかな?
クリスマスまで1週間。
ベビーちゃんを迎える気持ちで、
クリスマスを迎える準備をしたい。
クリスマスイブまで1週間・・・
病気の話は少しお休みして、
もうすぐ迎えるクリスマスの話題にしようかな?
今日はクリスマスを飾る華やかな「ポインセチア」のお花について・・・。
12月に入ると、
お花屋さんの店先はポインセチアがたくさん並んでいて、
この真っ赤な色のポインセチアを見ると、
「ああ、クリスマスだなー」と感じる。
そして「クリスマスの準備をしなくては・・・」と、
ポインセチアの花を飾ることから
毎年我が家のクリスマスの準備がはじまる・・・
【ポインセチア】
☆ 原産地 メキシコ
☆ 名前の由来 1825年当時、アメリカの初代メキシコ大使だった
ポイントセット氏がメキシコに自在していたポインセチアを発見。
これにちなんで「ポインセチア」と名づけれた。
☆ 花言葉 「祝福」「博愛」「私の心は燃えている」
☆ 和名 「猩々木」(しょうじょうぼく)
☆ 日本への渡来 明治時代
クリスマス・カラーは赤と緑とされているが、
緑はイエスキリストによって人類にあたえられている永遠の命、
赤は神の愛を示していると考えられている。
ポインセチアは、
クリスマスのちょうどこの頃に上部の笣葉(ほうよう)が赤くなり、
下部の尋常葉は緑色となって、
クリスマス・カラーになるので、
クリスマスの植物として用いられるようになったと、聞いている。
欧米では、「クリスマスフラワー」の別名もある程。
原産地のメキシコにはこんな伝説もあるんだって
両親を失った貧しいマリアという名の少女は、クリスマス前夜に、
皆がキリストの像にささげ物もって寺院に出かけるというのに、
彼女には何もささげ物がなく、ひとり淋しくしていました。
そこへ親戚や友人がきて、たとえ道の草でも心をこめて捧げれば、
キリストは喜ばれるといって、彼女を連れて行きました。
寺院の中にはステンド・グラスを通して美しい光が満ちていました。
少女はおそるおそる、道すがら摘んだ草を、
心をこめて祭壇に捧げました。
すると驚いたことには、
その草の茎は緑に、上の草は美しい赤に変わりました。
彼女の貧しい捧げ物は、ほめたたえられ、
キリスト降誕の花、ポインセチアになったのでした。
私はこの少女に会いたくなりました。
「あなたの心はとってもきれいよ・・・ 」
と抱きしめてあげたい気持ちでいっぱいです
8年前の乳癌の手術のことを、
当時の日記から書き綴っています(12/10から)。
乳癌は早く発見して早く治療すれば、
手術も簡単で、予後もいいので、
私はこのブログを通して皆さまに語りかけていきたいのです!
前回(12/14)は、
乳房温存療法手j術を実施したところまで書きました。
今日は、その続きです
☆★1997年の日記から☆★
【1997年5月22日・木】
15時にH病院の乳腺外科に行った。
14日に受けた手術の抜糸のため、
そして切除した癌の組織検査結果を聞くために。
気楽な気持ちで行ったのに、
そこでH医師から告げられた言葉はとても残酷なものだた。
組織検査の結果、
私の乳癌は、
「たちの悪い癌」「転移しやすい癌」ということだった。
「入院してリンパ節郭清手術をしておいたほうがいいでしょう」と勧めれる。
希望した個室が空いていたので、明日の入院が決まった。
どうしよう・・・?
「入院」なんて思ってもいなかった。
家族全員、組織検査の結果は良いだろうと勝手に考えていたから。
食欲もあるし、身体に変わったことは何もないし・・・。
私も家族も一変して、落ち着かないことに・・・。
安易に考えすぎてたな。
帰宅して入院の準備をした。
「手術後元気で帰ってこれるのかしら?」 と、
ふと不安が頭をよぎった。
☆★ー☆★ー☆★ー☆★ー☆★ー☆★ー☆★
温存療法手術だけで終わるのかと思っていたのに、
大変なことになりました
それまで、私は乳癌検診は実施したことがありませんでした。
まさか自分が「乳癌」になるなんて思ってもいなかったからです。
「おかしいな」と思ったとき、すでに、
「しこり」も、あきらかにわかる大きさ(2.2cm)になっていました。
2cm以上は第Ⅱ期に入るし、
その上「たちが悪く転移しやすい癌」っていうことになると、
絶望的でした
一度でも検診を受けておくべきだった・・・と、
心から後悔しました・・・
先週7日(水)に実施したCT検査の結果を聞くために、
今日は病院に行ってきた。
わたしの場合、
肺癌は幸運にも早く発見できた。
(2001年乳癌手術入院時のCT検査で)
そのため、半年に1回のCT検査も、
再発や転移の不安もあまりなく、慣れっこになっていた。
・・・が、今回は違う。
11月のPET検査で、
右肺に異常がみられたから・・・(11/29のブログに詳しく書いている)。
PET検査の結果報告書から引用すると、
「・・・CTAC(吸収補正用CT)上、
右S5に周囲血管束を引き込む結節影がみられます。」
なんだか私には意味がわからない。
呼吸器外科の担当のK医師が、
「CT検査をしてみましょう」 と言われたため、
7日に検査をしたわけである。
右S5というのは、右肺のどこかの部位?らしい。
わたしの番号を呼ばれ
(H病院では個人情報保護法のため4月から名前で呼ばれない)、
心臓をパックン!パックン!させながら、診察室に入った。
私 : 「おはようございます。」(震える声で・・・ )
K医師 : 「○○さん、CTの結果は異常ありませんでしたよ!」
私 : 「え~ 本当ですか うれしーい よかった 」
K医師 : 「よかったですね! 次は、3月に来てください」
私:「はい、ありがとうございます。」
すごく嬉しかった
私も、もう少し生きることができるかな・・・
でも、この喜びは、いつまでも続かないかもしれない・・・。
だって、来週(22日)には内視鏡検査の結果が待っているから・・・。
そして、再来週には泌尿器科が・・・。
現代の医学では早く発見して早く治療すれば、
「癌」は治る病気になってきているのではないかと私は思います。
8年前にはじめて乳癌の告知をうけたときは、
私自身も長くは生きれないだろうという覚悟でした。
8年前の日記を読み返しながら、
これまで3回にわたってブログに書き綴りました。
<1.乳癌の告知(12/10)・・・乳腺外科クリニックでエコーとマンモグラフィ検査>
<2.穿刺細胞検査(12/11)・・・H病院でエコー、穿刺細胞検査、マンモグラフィ>
<3.手術の段取り(12/13)・・・H病院で温存療法を勧められる >
今日は昨日(13日)の続きです
☆★1997年の日記から★☆
【1997年5月12日・月】
H病院を受診して、
14日の手術のための検査をした⇒(血液検査、心電図、尿検査)
最近喘息がひどいので、そのことを医師に伝える。
呼吸器内科に紹介状を書いてもらって、2Fの内科へ。
11時に受付をして、済んだのは14時だった。
疲れた・・・。
【1997年5月14日・水】
今日はいよいよ手術。
大雨だった。(私は雨女・・・)
この前から打ち合わせをしてきたように、
癌の部分をとる温存療法の手術をした。
温存療法は、入院もせずに日帰りというのが気が楽だった。
10時に受付して10時30分から手術。
手術は10時35分から始まり、11時30分に終わった。
約1時間・・・。
手術前は、すごくドキドキしていたけど、
局所麻酔で痛みを感じることもないまま、
先生や看護師さんとおしゃべりしているうちに、
無事終了した。
喘息もでなかった。
手術が終わって、
切除された部分を先生が私に見せてくださったが、
手術直後でわたしはまだ手術台に横になっていたので、
よく見えなかった。
でも、ピンク色をしたような気がする。
心のなかで、「これが憎き癌なのだ!」とつぶやいた。
後から聞いたのだけど、家族にもていねいに説明があったみたい。
よい先生に出会えてよかったと思う。
手術がすんでまもなく
「降りて(手術台から)帰られていいですよ」 と
看護師さんが言われたので、私は驚いた。
「もう歩いていいのですか?」と。
1Fで会計をすませ、
お薬(痛み止めと化膿止め)をもらって帰宅した。
思っていたより簡単な手術だった。
これが温存療法手術なのか・・・・・。
「癌」という恐ろしい物体が、
いとも簡単に私の身体から取り除かれたので不思議・・・。
今日切除された検体を顕微鏡で詳しく調べて、
次のことを考えることになっている。
まず第1段階がすんだ。
次は22日に抜糸の予定。
【1997年5月15日・木】
手術翌日。
朝起きると、かなり傷がよくなっていることがわかった。
昨日は右手を動かすのが難しかったけど、
今日は違和感がない。
そして昨日のズキンズキンとうずく感じがない。
結局、病院で出された痛み止めのお薬は、
一錠ものまずにすんだ。
でも今日は、身体がだるくて、
眠くて、
電話にも出ないで一日寝ていた。
☆★ー☆★ー☆★ー☆★ー☆★ー☆★ー☆★
乳房温存療法手術は、
入院の必要もないし、
とても楽に手術を受けることが出来ました。
不幸にして乳癌になった方も、
早く発見したらこの方法で、
乳房を残すことが出来ます。
何度も書きましたが、
とにかく症状が出る前に定期的に検査をしましょうね!
突然,、乳癌の告知をうけて、
簡単に受け止めることはできない・・・っていうのは、
どんなに強い人でも当然のことだと思います。
8年前の日記を再び読みながら、
当時のことをブログに書き綴っていこうと思います。
今日の日記は、11日(ブログ)の続きです
☆★1997年の日記から・・・★☆
【1997年4月29日・火】
25日に乳癌の告知を受けて、5日目・・・。
昨日はH病院で穿刺細胞検査をしたが、
その結果は12日に聞くことになっている。
たまらなく不安で仕方ない・・・。
【1997年4月30日・水】
乳癌の告知を受けて6日目・・・。
たくさんの人からお見舞いの言葉をかけていただくが、
私自身は、精神的には落ち込んでいるのに、
体調もよく、食欲もある。
体重も減らない・・・。 不思議・・・。
「癌」って、痩せてくるイメージがあったのだけどな。
もしかして、今回の検査で「癌ではありませんでした」ということは、ないかな?
【1997年5月1日・木 ~ 5日・月】
GW期間中5日間は、たくさんの思い出をつくっておこうと思って、
神戸に旅行に行った。
家族で十分楽しんだ。
時々無性に悲しく、涙がでて仕方なかった・・・。
【1997年5月6日・火】
GWの疲れもでたのか、今日は身体がだるかった。
それとも、癌のために疲れやすいのか?
何をする気力もおこらず、一日中横になっていた。
夜、兄から電話があった。
「H病院の担当の先生から連絡があり、
先日の穿刺細胞検査の結果、やはり癌だったので、
12日の予約を早めて、8日に来てください」とのこと。
乳癌が進行してるから、早められたのかと、不安がよぎる。
わざわざ電話があるなんて・・・!!
【1997年5月8日・木】
朝から大雨だった。
風もあり、台風のような天候。
予定どおり、H病院に行った。
担当のH医師から、
先日の結果と今後の治療方針の説明があった。
「貴女の癌は、たちのいい癌だと思うので、
全摘出しなくてもいのではないか・・・」と。
私は先日、先生に「全摘出を希望します」と言ってたし、
また、迷いが生じてきた・・・。
H医師はなるべく乳房温存療法で手術を、と考えておられる。
で、H医師から兄と相談してもらった。
その結果・・は、
まず外来(日帰り)で、
シコリ…癌のとそのまわり」のみ切除する手術をうけ、
その部分を顕微鏡で詳しく検査して(1週間~10日位)、
その結果で、全部切除するかどうかを決めることに決定。
今後の予定は12日(月) H病院受診 (手術前の検査)
14日(水) H病院 10:00~ 手術
☆★ー☆★ー☆★ー☆★ー☆★ー☆★ー☆★
8年前は、「癌」って聞くと絶望的でした。
でも今は、癌は早く発見して治療をすれば、
「治る」時代になっています
医学は、「日進月歩」です
「癌」で苦しんでいる方、頑張ってください・・・!
わたしも、頑張りますから・・・
先日のPET検査で、
「腹部(右外腸骨リンパ節)にFDGの集積がみられる」
という所見があり、
その再検査で、
今日は大腸の内視鏡検査をした
これまでいろいろな検査をしてきたが、
大腸の内視鏡検査は初めて・・・。
一言でいうと、とっても大変
検査当日(今日)はもちろん、
2日前から食事制限があるっ!
乳製品・海藻類・きのこ類・トマト・玉ねぎ・こんにゃく・みかん類・
繊維の多い食べ物ラーメンは食べいでくださいと。
そして検査前日(昨日)は、
エニマクリンPOという
検査用食事セット(朝食・昼食・間食・夕食)しか食べられない。
(自分でおかゆとか作ってもよいみたいだけど、
殆どの人が買っている←1500円)
<エニマクリンPO>
朝食 ⇒ おかゆ、お味噌汁、かつおふりかけ
昼食 ⇒ ゼリーミール(ゼリー飲料)、エネルギー補給飲料(レモン味)2袋
間食 ⇒ ビスケット2枚、飴1個
夕食 ⇒ ポタージュスープ(パンプキン味)
そして今日は、もちろん絶食(水分補給程度はよい)。
2、3日前から検査のことが心配だったし、
昨日のエニマクリンPO検査食も半分くらいしか食べなかったので、
問診表に体重を書こうと思って、
体重を測ったら 38、2kg だった。
9時30分までに来院してくださいとのことで、
この寒い時期に朝から大変
放射線科で受付をして、
内視鏡検査室(中待合)に案内された。
「あーどうしよう・・・」と、急に不安がこみあげてきた。
これまでたくさんの検査をしたが、
「異常はなかったですよ」という言葉はあまり経験していなくて、
いつも何か異常が見つかっているから・・・。
テーブルの上に、1、8リットルの腸洗浄液が見えた。
「あ、これなんだ!」 とひとり言。
内視鏡検査を経験した人のほとんどが、
これを飲むのがつらい・・・って言っている。
ポカリスエットのような味だった。( ちなみに私はポカリは嫌い )
「1時間くらいを目安に飲んでください」と、説明があった。
中待合には、私と同じ検査をする人が7名いらした。
その方たちと励ましあって飲んだが、
何とかクリアすることができた。
その後、検査着に着替えて、
左腕(何故か)に留置針を入れられる。
この留置針は、検査の直前に鎮静剤を入れたり、
途中で気分が悪くなった時に注射をするため。
また検査直前には、腸の働きを止める筋肉注射もされた。
こうして午後1時から検査が始まり、順番に呼ばれた。
検査室は、とてもひんやりして、寂しい空気だった。
結局、私の場合、
小さなポリープが一つあり、
それを検査中に切除された。
そのポリープが良性か悪性かの結果は、
22日に腹部外科で聞くことになった。
検査時間は、私の場合は30分くらいだった。
病院で渡された説明書に、費用は3割負担で1万円前後、
ポリープをとった場合は3万円前後と書いてあったが、
私の場合は2万円余りだった。
今は、気になっていた検査を終えた安堵感はあるが、
やはり、ポリープの結果がこわい・・・
☆★1997年の日記から・・・★☆
8年前の日記を見ながら、
当時の日記を綴っていこうと思います。
今日の日記は、昨日(10日)の続きです
【1997年4月26日・土】
昨日「乳癌」の告知をされ、あまり眠れなかった。
何故私が「癌」になったのだろう・・・と、
何が原因だったのかしら・・・と、
悩んでも仕方ないことで一日中苦しんだ。
まわりの人たちが、涙ぐんで心配してくれる。
その度に、私も涙がでた。
家族で話し合って、H病院で手術をすることに決定。
その旨を、○○乳腺外科クリニックに連絡した。
「紹介状を書いておきますから、都合のよいとき取にきてください」 と。
食欲もないまま一日が過ぎた。
夜、喘息の発作がでた。
【1997年4月27日・日】
今日は日曜日。
もうすぐ入院だと思うと、
何か片付けていかなければ・・・という気持ちはあるのに、
なかなか・・・。
朝9時にMさんからお花が届いた。
『少しでも和やかな気持ちで過ごせますように・・・』
というメッセージがついていた。
すごくすごく嬉しくて、涙がとまらなかった。
Mさん、ありがとう!
【1997年4月28日・月】
今日はH病院の受診日。
朝から雨・・・。
いろいろな思いで乱れている心を落ち着かせながら、
近くのクリニックと、○○乳腺外科クリニックと、兄の紹介状をもって、
受付時間の11時ぎりぎりに、
H病院にタクシーでかけつけた。
患者さんがとっても多く、
診察が始まったのは14時、終わったのは15時過ぎ・・・。
H病院で、またマンモグラフィとエコーの検査をした。
エコーの時、穿刺細胞診をされた。
担当のH先生から、
「おそらくおとなしい癌だと思います。」
「一週間くらい細胞の結果がでるまで待って、
それから入院と手術のことは考えましょう・・・」 と、説明があった。
5月の連休があるため、
12日に細胞診の検査結果を聞きに行くことになった。
夜、Sさんがケーキとお守りを持ってきてくださった。
ありがとう!
「乳癌」の告知をうけて3日目・・・。
すでに癌と闘っていく気力を失いかけている自分がこわい。
病院で長く待たされたり、
いろいろ痛い検査をしたり、費用もかかる。
癌って、どっちみち長くは生きれないのだから、
死にたいな・・・・・と考えたり・・・
☆★ー☆★ー☆★ー☆★ー☆★ー☆★ー☆★
当時私は、「癌=死」 と考えていました。
まわりの人の慰めも、
何故か私にとっては慰めになりませんでした。
その上1990年から10年位、喘息で苦しみ、
壮絶な人生を歩んでいる私・・・
この8年の間に「肺癌」も患いましたが、
今、私は生きています
現在「癌」で苦しんでいる方も、
きちんと定期的に病院で検査をして早く治療をすれば、
「癌」は治ると思います
希望をもって頑張ってくださいね
☆★1997年の日記から・・・★☆
これから何回かにかけて、
当時の日記をブログに書き綴っていこうと思います。
【1997年4月23日・水】
3、4日前から右乳病のしこりが気になり、
今日は近くのクリニックで診てもらった。(エコー検査)
専門の乳腺外科で再検査をするようにと、紹介状を書いてもらう。
紹介状の病名は、
「右乳腺腫瘤」(2、2×1、6×0、8cm)
「内部エコー不整、血栓クリア、可動性あり」
・・・と、書いてあった。
大きさのことは理解できるが、後のことはわからない。
25日に再検査に行く予定。
すごくドキドキしてきた。
【1997年4月25日・金】
今日は、予定どおり紹介状をもって、N乳腺外科に行った。
そこで再び、エコーとマンモグラフィの検査をして、
10分くらい待たされた後、
「貴方が心配していたように、やはり乳癌ですね・・・」と、
いとも簡単に、私は乳癌の告知をうけた。
「エーッ、本当ですか?」と、私は先生に何回もたずねた。
「今のはまちがいですよ」と先生に言ってほしかった。
でも、そんなことを言ってもらえるはずがない。
私が茫然としていたら、先生が、
「待合室で何分も泣いて帰られる方も多いですから、
ゆっくり休んで帰ってくださいね」と。
私にとって、そんな言葉は耳に入らなかった。
どうでもいいことだから・・・。
どんな言葉より、「乳癌」という言葉を取り消してほしかった。
「手術の必要がありますが、
大きな病院のどこにされますか?紹介状を書きますから・・・」
○○病院、○○病院、○○病院と、選択肢を言ってくださった。
「兄が医者なので相談して、お電話します・・・」そういい残して、
クリニックを出た。
クリニックを出て、まず家族に電話をした。
妹が電話の向こうで泣いている・・・。
私は、「残された時間を、大切に生きるから大丈夫よ」と、慰めた。
先生の前でも泣かなかった私が、
そう言いながら、
崩れるように泣いた。
「乳房がなくなるの?」
「癌なの?」
「ほんとに癌なの?」
頭の中が真っ白になった状態で、
どのように家にたどりついたのかわからない・・・。
気がついたら、
家のソファーに座り込んで、泣いていた・・・
これからどうすればいいのだろう?
どのように乗り越えればいいのだろう?
☆★ー☆★ー☆★ー☆★ー☆★ー☆★
この日から、私の「癌」との闘いが始まりました。
8年前の日記を読み返しながら、
今、またあの日のことが鮮明によみがえってきます。
私は、一人で病院に行き、一人で告知を受けました。
これ以上つらいことはないと思うので、
それ以来、私は少しだけ強くなったかな?
そして、たくさんの人に支えていただきながら、
8年間生きることができました・・・
今、癌で苦しんでいる方も、
希望をもって頑張ってほしいと思います・・・
私は昨年9月からパソコン教室に通っている。
(2、3日前も書いたかな?)
初心者コース → Word基礎 → Word本科 → Word応用 →
ネット基礎 → ネット本科 → ブログ・・・と学習してきた。
今日は、「リンク」と「トラックバック」について教わった。
これまでは何とかついて来れたけど、
リンクとトラックバックは(そして前回の写真挿入も)、
メカに弱い私にはちょっと難しく感じる
私は、何か欠けているのかもしれない・・・と、
自信を失いそう・・・
これって、理解力
それとも、ちょっと頭が・・・
いやいや気を取り直して・・・。
リンクとトラックバックは、
コピーと貼り付けの操作が関係あるので、
そのあたりから、復習した方がいいかな・・・と感じている
先生に教わった時は、何となく理解を示したが・・・。
家に帰って、今思うことは・・・、
やっぱりあまり解っていない・・・
先生、ごめんなさい・・・