マンション管理士日記

地域を守る:マンションと地域の融合

死の超克 ①

2009年11月06日 | 民生委員

地域活動の大先輩が逝去されました。

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告別式に参列して、多くの学びを頂いたことを思い出しました。 読経のあいだ考えていたことがあります。 しかし、それを表現する文章力がないので、丸山敏雄先生の著書から拝借いたします。

<死は生なり>

地上の人類が、知ると知らぬとにかかわりなく、時の古今、洋の東西、長幼をも超えて、公平に平等に課せられる命題。

そしてのがれることも、延ばすことも許されず、必ず果たさねばならぬ責任。 それは必ず一度であり、再び出あうことのない、最もむずかしい、しかし又最も易い事件。

善きにせよ、悪しきにせよ、やり直しができぬ。 又下げいこもできぬ。 また、いかほど準備しても追いつかぬし、何の用意もなくても過ぎてしまう。 分りきったようで、少しも分らぬし、分らぬからとて遠慮なしにぶち当る。

これは生の終止符、生命の総決算、人の世の一大事、「死」 である。 (中略)

死を以て生の終りとするから、これに人生の成果がかかってくるように見える。 死は、実は生の終焉ではない。 (中略)

「し」(死)というのは、顕幽両界の境、切れ目、をいうのであり、「生」(うまれる)ということは、幽顕両界のつなぎめをいうので、これは駅の改札口のようなもので、出入りの相違、方向のちがいがあるだけで、同じことであるから、同じ感情で、これに向うのがほんとうである。

生まれることが喜びであったら、死ぬることが又同じくよろこびでなければならぬ。 朝起きることが喜びであるが如く、夜ねるのは嬉しい。 金銭の入るときが元気がよかったら、金銭が出て行く時も愉快で上きげんなくてはならぬ。 貯金がうれしくて、借金がうれしくない道理がない。

こう考えてみると、生れることが喜びであれば、死ぬることも亦よろこびをもって、これに向わねばならぬ。

これがなぜ出来ぬのであろうか。

実は人間の短見、近視、浅はかな思慮からくる迷いであることは、古人がすでに教えてくれている。 永い歴史を通じて養われてきた習慣というか、偏見というか、それが許さぬのである。 理屈ではわかっているようでも、さて感情が許さぬ。 夜のねざめに死を思うと、心細くなる。 (中略)

生死はもと一如、生命はこれ不滅、宇宙は正に永遠、ここにはもはや、超克せねばならぬ死はないのである。 否、もともと死こそ、ほんとうの生である。 (中略)

生は死の仮相であり、死は永遠の生である。

 

以上、『万人幸福の栞』 から抜粋しました。 死を考えると、途方に暮れてしまいます。 不幸にして浅学の身であれば、引用して述べるだけです

死別の悲しさ。 現世では二度と会うことが出来ないと思えば、本当に悲しい。 そのとき、丸山先生の 「死の超克」 という言葉が脳裏に浮かんだのです。

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