先回に続いて、『葵上』の絵画です。
20.4ccmx35.3㎝、絹本、江戸中期。
未表装の古画です。細長い絹地に描かれています。
おそらく、巻物状の能画集を切り取ったものと思われます。江戸初期ー中期にかけて、このように多くの能の場面(タイプB)を描いた巻物が作られました。今回の品は、そのうちの一つでしょう。
これは、能『葵上』の後半部のクライマックス、「祈り」の場面です。
先回のブログにあったように、前半では、「枕の段」が終わると、六条御息所の生霊は消え失せます。
さて、『葵上』の後半です。
臣下は、ただならぬ体の生霊に対して加持祈祷をするため、横川の聖を呼び寄せます。
床には、葵上が病に臥しています(衣服で代用)。
そこへ、鬼女と化した六条御息所の生霊が現れ、打杖をかざして襲いかかります。
数珠を揉み鳴らし、必死に祈祷する横川の聖。
大小鼓が激しく打ち鳴らされるなかで、戦いは続きます。
しかし、ついに鬼女は調伏され、怨念を捨て、成仏して、舞台から消え去ります。
能『葵上』は、強い怨みを抱いた女の心がテーマです。例によって、ストーリーは単純ですが、能ならではの味わいや含蓄が含まれています。
能では、激しい恨みや怒りのなかに、人間の哀しさ、時には優しさまでが表現されているのが特徴です。それは、シテがつける面にも表れています。
先回のブログ、『葵上』前半の生霊がつける面、泥眼です。
泥眼(『能楽古面輯』昭和16年)
恨みを抱いた女の面で、白目や歯が金色に塗られています。不気味ですが、どこか優しさを秘めています。
さらに、怒りと恨みが強くなると、般若になります。
般若(『国立能楽堂コレクション展』2008年)
般若は怖い面の代表とされています。確かに、つり上がった金眼、大きく裂けた口、怒りと恨みが込められています。しかし、大きな額の下にある奥まった眼には、怒りよりもむしろ、苦しみや哀しみが表れています。
般若は別名、中成(ちゅうなり)です。怨念が、行きつくところにはまだ達していません。
怒り、恨みがさらに強くなると本成(ほんなり)とよばれる究極の面、「蛇(じゃ)」になるのです。口はさらに大きく裂け、舌がのぞいています。耳はなくなり、蛇の体となります。よく知られた『道成寺』では、若僧に恋をした女が恨みのあまり毒蛇となり、鐘の中に逃げ込んだ若僧を蛇体を巻き付けて、焼き殺してしまいます。『道成寺』の舞台では般若面が多く用いられますが、本当は蛇面ですね。
真蛇(『国立能楽堂コレクション展』2008年)
なお、泥眼と般若の間の怒りの面は、生成(なまなり)と呼ばれていて、角が半分だけ生えています。この方が、般若よりも怒りがどんどん増している状態をよく表しています。大変不気味な面です。
さて、もう一度、六条御息所を見てみます。
装束は、三角形の連続模様です。これは鱗を表しています。蛇体になっているのですね。
これは、先回のブログで紹介した『葵上』の前半、六条御息所の生霊が恨みをのべながら舞う「枕の段」です。この時、シテは、もう、内側に鱗模様の衣服をまとっていることがわかります。
鉄輪、橋姫が生成だと知りました。
六条御息所の方が、高貴な分、怖さも上だと考えられたのかも?鉄輪の方が恨みは深い様に感じますが。
拙句
飲み過ぎて生成りとなる春の宵
(川柳的です。中成りに成る前に謝るべきですね😃)
ここに、人物の葵上を登場させると、画面が煩雑になりますよね。能舞台でも同じで、舞台が混み合ってまとまりがなくなり、絵になりませんね(^_^)
構図も考えられているのですね(^-^*)
余談になりますが、私も能面を1面だけ持っています。
私も、古伊万里だけではなく、他のジャンルのものを少し集めていたことがあるんです。もっとも、遅生さんとは比べものにならないほどのガラクタを漁っていたわけですが(~_~;)
そのような過程で漁ってきたものです。
その面は、多分、小面だろうと思っているのですが、かなり状態が悪く、面の表面など、かなり剥げ落ちています(~_~;)
しかし、その面、見えるところに飾っておくと、妻が気味悪がりますので、今では押入れの中で眠っています。
Drも能面を持っているのですか。せっかくですから、そしらぬ顔で掛けてみてください(^.^)
能面は別にして、訳のわからない面はほとんど二束三文ですから、私には魅力的です。問題は、面に関する資料が乏しく、訳の分からないままで終りそうな事です(^.^)