今回は、豊楽焼(とよらくやき)の木具写重箱です。
縦横 21.0x21.0㎝、高 10.9㎝。重 1676g。幕末。
黒く汚れた箱に入っていました。
書かれた文字が、かろうじて読めます。
「七◯写し 七寸大重」
「大喜豊助造 印」
大喜豊助:四代豊楽焼当主、豊助、文化十(1813)ー安政五(1858)年。
蓋:
写真では分かり難いですが、細かな地紋が漆細線で描かれています。
横:
反対側:
底には、木製漆塗りの盆や箱に特有の脚がついています。
「豊楽」の印が真ん中にあります。
漆面が鏡のようになって、周りを映しています(^^;
ところが、蓋をとると・・・
やはり、陶磁器ですね。
釉下に、梅と鶯が上品に描かれています。
一見すると、全く普通の木製漆塗りの重箱。そして、蓋をとると、陶磁器。この落差が大きな名品です(^.^)
先のブログで紹介した、木具写菊花紋菓子鉢と似た造りですが、今回の品は半陶半磁で、さらに分厚いのでずっと重い(1.7㎏)です。この器を差し出された客は、蒔絵の出来を褒めた後、蓋を手にして、びっくりするに違いありません。そして、内側の瀟洒な鶯の絵。驚く相手をしり目に、主人はしてやったりという顔です(^.^)
豊楽焼は、江戸時代後期から大正時代まで続いた焼物です。楽焼の茶碗をはじめ、京風の煎茶具、さらには漆蒔絵を施した陶磁器を数多く作りました。江戸後期、名古屋にはいろいろな焼物が登場しました。その中には、陶工の個人名を記したものがいくつかあり、豊楽焼もそのひとつです。豊助、豊八などの名をとって、こう呼ばれるようになったようです。
今回の品は、四代豊助の作で、銘と印がある共箱に入っています。このような形式の作品は現代の作家物には当り前ですが、陶工の地位が低かった江戸時代に、陶磁器本体だけではなく、銘と印を入れた箱に納めて商品化することは、極めて稀でした。どうして名古屋にこのような昨品が生まれ、百年以上も続いたのたのかははっきりしませんが、それを可能にする歴史風土があったことは確かだと思います。
漆器と陶磁器の合体なんてのがあるとは・・・、しかも見事な出来栄えの品ですよね。
蓋を取ると陶磁器、昔の数寄者が仲間を集めて自慢しそうな品です。
ここまできますと、中身の陶磁器よりも、外部の塗りのほうが主になりますね(^_^)
素晴らしい漆芸ですね(^-^*)
伊万里にたまに見かける漆を塗ったものは、あくまでも、本体の伊万里が主ですが、ここまでくると、本体の陶磁器は霞みますね(^-^*)
こういう変わり陶磁器も、それなりに面白いです。
漆は、元来、木部に塗るものですから、磁器よりは木質に近い陶器の方が合いますね。やはり、持った時の重さとほのかな温もりがホッとします。