このところ、明治の大皿をいくつか紹介してきましたが、やはり時代が下がると味わいが乏しくなることは否めません(^^;
そこで今回は、グッと趣を変えた品を紹介します。
古い箱の中から出てきたのは・・・
軟陶の皿、5枚です。
径 27.0㎝、底径 12.1㎝、高 4.1㎝。19世紀。
オランダのデルフト焼です。薄造りのクリーム色の柔らかい地に、銅版転写で田園風景が焼き付けられています。
当時の農村の風景でしょうか。
大きな木の下に少年が腰を下ろし、その周りで牛や羊が草を食んでいます。
遠く、家の傍にも、人と動物たち。
皿の外周は、花々で美しく飾られています。
デルフト焼の特徴は、透明上釉に低温で融解する錫を用いている事です。
その結果、表面には全体に規則的なジカンがみられます。
上の写真で明るく反射している部分にモザイク状の凸凹をクッキリと見ることができます。
拡大すると、規則正しくモザイクが並んでいることがわかります。
銅版転写は、銅板に鉄筆で絵を描いた後、酸で腐食させて銅版をつくり、紙に印刷する技術です。この絵(銅版画)が印刷された紙を陶磁器の素地に貼り付けて、模様を生地に写し取り、上釉をかけて焼成すると印版陶磁器ができます。明治期、美濃や瀬戸で大量に焼かれた印判手の陶磁器では、絵の濃淡は斜線の集まりで表したので、多くの絵柄を簡単に描く事は出来ましたが、繊細な絵付けは不可能でした。結果として、日本の印判染付は、下手の雑器に留まらざるを得ませんでした。日本で印判手の陶磁器が定着しなかった大きな理由はそこにあったと思います。
一方、ヨーロッパでは、18世紀末、イギリス、スポード社が転写紙を用いた画期的な方法を開発しました。日本で多用された斜線ではなく、銅板上に微小な点を無数に穿ち、それで形や濃淡を表したのです。この手法によって、非常に繊細な絵付けができるだけでなく、絵に奥行きや遠近感を出すことが可能となりました。
今回の品は、そのような銅版転写で、田園風景が描かれています。
皿外周、花模様の間を埋める地模様の拡大写真です。
1㎜の間に、数個の点が打たれています。このような点の集まりが、穏やかで繊細な画面を作り上げているのですね。
この品は、重ね焼きによって焼成されているようです。
皿の裏の外周を注意して見ると、非常に小さな目跡(1㎜程)が正三角形に並んでいます。裏面には、このような正三角形の目跡が、3組あります。
皿の表側はどうでしょうか。
裏面の三角形目跡がある場所の表側を注意して見ると、非常に小さな目跡が1つあることがわかります(写真中央の枝のまん中あたり)。この目跡は、裏側の三角形目跡に対応しており、表面には全部で3つあります。
デルフトでは、品物を裏向きにして、片方が3本、反対側が1本のピンを備えた窯道具を用いて、皿の外周近くの3カ所に置き、その上に別の皿を置いて重ね焼きをしたのでしょう。
さて、このような品がどうして伝世したのでしょうか。
箱の表には、「阿蘭陀焼平鉢五枚」と書かれています。
阿蘭陀は、オランダ。和蘭陀とも書かれ、阿蘭陀焼はずいぶん珍重されたようです。近年、阿蘭陀焼と呼ばれる品物のうちかなりの品は、京焼を中心として、日本国内で作られた和製阿蘭陀焼ではないかといわれるようになりました。それはそれで、日本陶磁史上、興味深い出来事ですが、いわゆる阿蘭陀焼の中で、実際に招来された品数は、少ない事になります。
今回の品は、19世紀、オランダで焼かれたデルフト焼です。
「和製阿蘭陀焼平鉢」とあります。この品の形は・・
日本では見られません。ましてや、スープ皿とは思いもつかなかったことでしょう。そこで、やむを得ず「平鉢」とした(^^;
では、誰が「平鉢」と呼んだのでしょうか。
箱裏に書かれていたのは「松峰 明壽院」。
これは、「松峰山 金剛輪寺、明壽院」を表していると考えられます。
金剛輪寺は、滋賀県にある天台宗の名刹。行基が開いたといわれるこの寺は、百済寺、西明寺とともに湖東三山とよばれ、紅葉の名所として有名です。金剛輪寺には多くの文化財と血染めの紅葉、そして、近畿地方でも有数の庭、明壽院の庭園があります。
今回の品は、そんな由緒ある寺院の什物だったのですね。おそらく、明治の廃仏毀釈で外部に流出したのでしょう。私の所へいらっしゃったのも何かの縁。無碍にはできないです(^.^)