抗議文
平成18年3月10日
茨城県産婦人科医会 会長 石渡 勇
日本産科婦人科学会茨城地方部会 会長 吉川裕之
茨城県医師会 会長 原中勝征
先ずは、ご逝去された患者様とご家族ご親族の皆様に対し哀悼の意をささげたいと思います。
さて、平成18年2月18日、福島県立大野病院産婦人科医師、加藤克彦氏(以下、医師)が業務上過失致死および医師法違反の被疑により逮捕、富岡警察署に勾留、3月10日福島地裁に起訴された件に関し、茨城県産婦人科医会(以下、医会)、日本産科婦人科学会茨城地方部会(以下、学会)、茨城県医師会(以下、医師会)は、誤った医学的判断および医師法解釈による不当な行為と考え、遺憾の意を表明すると共に抗議するものであります。
1. 医療上の過失の有無に関する意見
国内外の論文をみても、前置胎盤症例は全分娩の0.5%に見られ、多くは帝王切開となる。この場合留意すべきものは癒着胎盤である。癒着胎盤を伴う前置胎盤の頻度は0.1%未満である。また、子宮全摘出が必要な癒着胎盤は全分娩の0.01%と考えられる。一般にこの頻度は経産回数、高年齢、帝王切開術等手術既往と相関するとされる。癒着胎盤症例でMRI検査によって事前に診断されるのは2.5%との報告もある。
報告書(県立大野病院医療事故調査委員会;平成17年3月22日)をみると、本症例においては、前回帝王切開がなされているが、その創部と胎盤付着部位は離れており、前置胎盤症例の中で特別な危険因子が存在していたわけではない。また、超音波検査やMRIを用いて癒着胎盤を診断する試みは論文に出始めているものの、日常診療の中で標準的な取り扱いになる程、診断の信頼性は高くない。すなわち、これらの機器を用いた癒着胎盤の診断は医療水準となっていないと判断する。また、医師は超音波検査で前置胎盤と診断し、妊娠36週6日に、麻酔医、外科医、看護師4-5名のスタッフを確保し、輸血用血液を5単位用意するなど慎重な準備の下に手術を開始している。特に、本症例は胎盤剥離が極めて困難であったが、摘出された子宮・胎盤の病理組織診断では癒着胎盤(placenta accrete)であり、胎盤の剥離ができない嵌入胎盤(placenta increta)や穿通胎盤(placenta percreta)ではなかった。本症例は出血量速度とも極めて予想外のことであり、手技の問題ではなく、極めて特異的疾患によるもので避けがたいことと判断する。また、今回のように子宮を摘出せねばならないほど大出血になることは極めて稀であり、子宮の温存を強く希望する患者に対して、胎児娩出後、胎盤剥離を試みず直ちに子宮全摘を行うことを患者に説明することは困難である。胎盤剥離を試みて剥離困難かつ多量の出血があった場合、子宮全摘出を行うのが一般的である。
本症例は、子宮全摘出となる程の癒着した前置胎盤を予知することは困難であり、ここに過失は存在しないと判断する。
2. 患者・家族への説明義務違反について
報告書には、手術中に大量出血が見られた時点、子宮摘出を判断した時点において家族に対する説明がなされていない、と記載されているが、救急救命に全力が傾注されている最中に説明をすることは不可能であり、本件において説明義務違反は存在しない。
3. 警察への届出について
医師法21条(医師は、死体又は妊娠4ヶ月以上の死産児を検案して異状があると認めたときは、24時間以内に所轄警察署に届け出なければならない)と規定されている。「異状死」の概念や定義には曖昧な点が多い。日本法医学会は「診療行為に関連した予期しない死亡、およびその疑いがあるもの」を「異状死」に含めるとした。一方、外科関連学会協議会は、診療行為の本質を考慮し、説明が十分になされた上で同意を得て行われた診療行為の結果として、予期された合併症に伴って患者の死亡・傷害が生じた場合については、診療中の傷病の一つの臨床経過であって、重大かつ明らかな医療過誤によって患者の死亡・傷害が生じた場合と同様に論じるべきではないとし、「何らかの重大な医療過誤の存在が強く疑われ、また何らかの医療過誤の存在が明らかであり、それらが患者の死亡の原因になった場合、所轄警察に届出を要する」としている。本件は、結果的には医学的に合併症として合理的に説明できる死亡であり、異状死とは認めがたい。また、子宮全摘出となる程の癒着した前置胎盤を予知することは困難であり、過失は存在しない。また、説明義務違反の存在もなく、重大な医療過誤が存在するとは言いがたい。
4. 地域の医療事情
県立大野病院は過疎地域にある中核的な総合病院であり、産婦人科医一人でも分娩・手術を実施しなければならないという事情があった。しかも、大出血をおこし子宮全摘出となる程の癒着した前置胎盤を事前に予知することが困難な症例を、施設の整った他病院へ紹介転送することは一般的ではない。
5. 社会的な影響
警察当局の予期せぬ介入、医師の不当逮捕があれば、医療側は過剰診療・防衛医療、消極的医療(リスクが高い医療を拒否)にならざるを得ず、産科医療からの撤退、産科医の減少、分娩機関の減少に拍車をかけ、周産期医療は崩壊し、国民は分娩する場所を失い、国是とする少子化対策に暗い影を落すものである。事実、地元の福島民友新聞には“医師派遣をおこなっている福島県立医大は、医師逮捕の事態を受けて、「患者の命を守るためには1人態勢を改善すべき」として、県立大野病院と同様、産婦人科医が一人しかいない会津総合、三春の2県立病院への産婦人科医派遣を取り止める方針を固めた”と記述されている。この動きは全国に波及するものと思われる。行政には、患者にとっては安全・安心な医療が受けられるよう、また医師にとっても安全・安心な医療が提供できるよう、複数の医師を確保するなど、速やかな善処をお願いしたい。
医会・学会、医師会は、ここに加藤医師の逮捕、起訴に対し強く抗議するとともに、加藤医師への全面的な支援を表明する。また、診療行為に関連した患者死亡の警察への届出、事故の真相解明、再発防止について協議する中立的専門機関を早急に創設されることを切に望む。