朝日新聞の記事
医師逮捕・詳報(上)~声なき子宮の訴え~
2006年03月14日
大熊医師逮捕・詳報(上)~声なき子宮の訴え~町にある県立大野病院の産婦人科医、加藤克彦医師(38)=業務上過失致死と医師法違反の罪で起訴=が帝王切開手術で「医療ミス」を起こし、女性(当時29)が死亡した――。
(遺体なき捜査)
県警がこの事実を知ったのは05年3月。県が公表した事故調査報告書についての報道からだった。報告書は、死亡した女性が、出産後に自然にはがれるはずの胎盤が子宮に癒着している「癒着胎盤」で、十分な輸血用血液を待たずに胎盤をはがそうとしたことに「はがすのをやめ、子宮摘出に進むべきだった」と指摘していた。
県警は手術の状況を把握するため、捜査に着手した。病院を家宅捜索してカルテなどを入手した。しかし、手術からすでに4カ月が経過し、遺体がないため、司法解剖は出来なかった。
「物証」の一つとなったのが、死亡した女性の子宮だった。県警は、保存されていた子宮やカルテの鑑定を専門家に依頼。鑑定の結果、子宮のどの部分に胎盤が癒着していたかが裏付けられ、子宮から胎盤を強引にはがしたことも分かった、とする。
癒着胎盤にどう対応するか――。医学生向けの教科書(『STEP産婦人科(2)産科』可世木久幸監修、海馬書房)には、「まずは胎盤用手剥離(胎盤を手を使ってはぐこと)を行いますが、ここで無理をすると、大出血や子宮内反を招くので注意が必要です。胎盤用手剥離が難しい場合には、原則として単純子宮全摘術を行います」と記載される。
県警は専門家から話を聴くなどして、多くの血管が密集する胎盤を無理やりはがすと、大量出血して母胎に危険が及ぶ可能性があり、通常なら、無理にはがすべきではないと結論づけた。
「無理やりはがすこと自体が過失」と、捜査関係者は言う。
県警によると、加藤医師は手術後、院長に「医療過誤はなかった」などと説明したという。「うそをついているのか、もしくは、医学的知識が不足していたのか。どちらかだろう」と、捜査関係者の一人はみている。
(真っ向対立に)
一方、弁護側は、加藤医師の行った一連の手術について「担当医として講ずべき処置を行ったもの。業務上過失致死罪に問われる過失はない」とする。
逮捕について、捜査関係者の一人は「(加藤医師を)病院の関係者と遮断して話をする必要があった」と説明した。
今月10日の起訴に際して、福島地検の片岡康夫次席検事も「罪証隠滅のおそれ」を挙げた。
片岡次席は「遺体やビデオ、心電図が残されておらず、関係者の供述が不可欠な状況で、身柄を確保した上で話を聴く必要があった」とし、また、「海外を含めて逃亡のおそれがあった」とも付け加えた。
「医療ミス」を知ってから逮捕まで約1年を要したことについて、片岡次席は「専門的な捜査で県警と地検が内容を理解するのに時間が必要だった」とした。
捜査当局の主張に対して、弁護側は、(1)カルテなどの証拠物が押収されていて、廃棄や書類の偽造など罪証隠滅はあり得ない(2)発生から長時間が経過していて、証拠隠滅や口裏合わせをしているのであればすでにしている――などとして、真っ向から対立する姿勢を示している。
◇
医療関係者から批判が相次ぐ中で、捜査当局は、公判維持に自信をのぞかせる。約4時間半の手術で、いったい何が起きたのか。何が捜査で明らかになったのか。一人の命と引き換えに県と医療界は何を学んだのか。事件を検証した。
(この連載は、神庭亮介、斎藤智子、田中美穂、八木拓郎が担当します)
医師逮捕・詳報(中)~血液あふれ出てきた
2006年03月15日
04年12月17日――県立大野病院で、女性(当時29)の帝王切開手術が午後2時26分に開始された。
主治医の加藤克彦医師(38)のほか、麻酔科専門医と外科医、看護師4人が手術室にいた。
女性は、手術前の検査で、子宮の口を胎盤が覆う「前置胎盤」と診断された。帝王切開手術しか選択肢はなく、第1子の出産時に続き、2度目の手術に臨んだ。
手術は順調だった。11分後に無事、女の子が産まれた。捜査関係者によると、女性は、生まれたばかりの赤ちゃんを抱かされ、見つめたという。のちに、全身麻酔で意識を失った。
「はがれない」
その後――「事故」を調査した医師や関係者によると、加藤医師は手順通り、子宮収縮剤を注射し、胎盤を外しにかかった。だが、へその緒を引っ張ればつるりととれるはずの胎盤が外れなかった。子宮を手でマッサージしたが、変わらない。胎盤を手ではがし始めたが、途中ではがれなくなった。
「ひっぱってもとれなかった」「血液があふれ出てきた」。加藤医師は逮捕後、そう関係者に話している。はがれないため、クーパー(手術用はさみ)の先を子宮と胎盤のすき間に入れ、空間を作るようにして、癒着胎盤をはがしたという。
胎盤は、いわば血の塊だ。お産の際、胎盤がとれると子宮が収縮し、血管が縮んで血が止まる。通常のお産なら、「1千ミリリットルぐらい出血しても気にしない」と、複数の産婦人科医はいう。
見えない手元
だが、癒着胎盤の場合は別だ。癒着胎盤の手術を経験した産婦人科医は「血がどんどん吹き出して手元が見えない。どこから出ているのかもわからない」と話す。
加藤医師は9年目の「中堅」(県病院局)だが、癒着胎盤は初めてだった。県の事故報告書によると、胎児をとり出してから胎盤摘出までの13分間に約5千ミリリットルの血が失われていた。
準備した血液製剤5単位(1単位、200ミリリットル)はすべて輸血。午後3時15分に血液製剤2千ミリリットルを、いわき市にある赤十字血液センターに注文した。同3時35分には子宮摘出に向け、全身麻酔に移った。
このころ、作山洋三院長が手術室に入り、加藤医師に、ほかの医師の応援を頼んではどうかと提案している。加藤医師の返事はなかったという。
血液センターから、注文した血液製剤が届いたのは、午後4時30分。ただちに輸血。総出血量は1万2千ミリリットルに及んでいた。
午後4時5分に追加注文した血液製剤も午後5時30分に届き、子宮を摘出した。ところが午後6時ごろから、女性の脈が弱まった。作山院長が再び手術室に入った時は蘇生の真っ最中だったという。午後7時1分、死亡が確認された。
作山院長は、加藤医師と麻酔科医を呼び、手術の経過を聴いた。「異状死」なら、医師本人が24時間以内に警察に届けなくてはならない。県のマニュアルでは、院長に届け出義務があった。
作山院長は、取材に対して「医師2人の話を聴き、医療過誤にあたらないと判断した。血管を切ってしまったり、臓器を傷めたり、そういうことが医療過誤と考えている」と答えた。
家族はこの間、ずっと手術室前の廊下で待っていた。すべてが終わってから、加藤医師に、女性の死を告げられた。
「結果論」の声
医学書によると、帝王切開の回数が増えるほど前置胎盤での癒着胎盤の確率は増す。
米国の臨床例では、前回の帝王切開の傷跡部分に胎盤が付着している場合、35歳以下で前置胎盤の妊婦のうち、6人に1人が癒着胎盤だった。
加藤医師の手術前の診断では、女性は「前回の帝王切開の傷跡に胎盤が付着していない前置胎盤」とされた。子宮後壁に付着し、傷跡とは無関係の場合、癒着胎盤となっている確率は27人に1人に下がる。
事故調査委員会は、カルテや超音波診断写真などから、加藤医師と同じ判断を下した。だが、県警は残された子宮を鑑定し、胎盤が前回の帝王切開の傷跡にかかっていたと結論づけ、福島地検は起訴状で加藤医師もそれを「認めていた」と指摘した。
「手術前、かりに帝王切開の傷跡に胎盤が付着していたと診断していれば、血液の準備や医師の確保などで、もっと何とかなったのではないか」。そう指摘する医療関係者もいる。
その一方、ある産婦人科医は「すべては結果論。現実にはわからなかった。これが臨床診療の限界です」と話した。